神様にすがる思い
いまから数千年前、もう誰も覚えていないくらい大分前、北極星が見えなくなった時代、ある人たちはあることを知っていました。
そのあることとは、人々から心が少しづつ失われ、やがて誰もが目に見える豊かさを追い求めることになる現象、物質時代の到来。
そこである人たちは、その時代を見越していくつかのシステムをこの世界に作りました。
それが一部宗教であり、唯一神信仰。
人々から心が失われ、物質主義の世界になると必ずあることが起こります。
それは、弱き者たちが誰にも助けを求められなくなるということ。
目に見える豊かさを追い求める人々は、弱い人たちにかまっている暇がなく、むしろ弱者から搾取しようとします。
学校でいじめられている子を助けた子はどうなりました?
きっと、次の標的にされたはず、つまりそういうことです。
物質主義が悪いのではなく、それはただの時代の流れやうねり、つまりシステムなのです。
弱いものをいじめる者たちもまた、より強いものから搾取されます。
こうしてピラミッド型の社会構造が形成され、年を追うごとに格差は広がり続け、ますます世界には差別や偏見が満ち溢れます。
そんな世界で唯一信じられる、生きる希望、それが信仰です。
ピラミッド社会の低層に生きる人々は物質原理主義の世界において、日々尊厳を保ち生きるため神様を信じ、日々信仰にすがり祈りを捧げる。
周りを見渡すほどに著しい格差、そんな社会で生きる糧となるのが信仰心。
『南無阿弥陀仏』
精神が中心であった時代より失われた心のかわりに信仰がその依り代となったのです。
かりそめの信仰心、偽りの心とそう笑うでしょうか?
数千年もの間、王族や権力者一族が積み上げた財や力に抗うすべなどなく、現代の大半の人々がピラミッドの下層部からのスタートを余儀なくされる。
仮に死に物狂いで頑張り、才能を遺憾なく発揮したとて無駄なこと。
この世に出る杭は必ず打たれます。
何故ならば、例え一代で数千億円の財を成し大きな成功を収めたところで無意味なのです。この数千年で彼らが蓄えた富は数千兆円よりも遥かに桁の違う額に上るから。
彼らにとっては、現世などもはやただの暇つぶしのゲームですらない。
私たちが知っている有力者でさえしょせんは大した存在ではなく、歴史的に名が残る人物の遥か後方、真の権力者は誰にも知られることもなくすべてを知っているのです。
表に彼らの名が知れ渡ることは絶対になく、人知れずすべてを行っているのです。しかしその支配も永久には続かない。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
ある人たちはあることを知っていました。
物質がこの世の九分九厘を覆うとき、残り一厘によって反転し、また精神が還ってくることを。
この世は陰陽の繰り返しの中を漂う定めであることを。
しかし皮肉なことに、ある人たちの一部は現に、今この世を統べている人たちでもあるのです。
この仕組みの秘密を代々受け継いでいる彼らは、次の精神文明においてもまた陰でこの世の中心となる。そうしてまた数千年間、陰陽ひっくり返った新たな時代のうねりの中で人々を統べるのである。
目に見える物質的な豊かさを追い求めることが卑しく悪い、目に見えない精神的な充足が良い、といいたいわけではない、ただこの世は無常に繰り返すだけなのだ。
現人神システム
もしこの世に神や仏がいるとすれば、それはこの世の仕組みに他ならない。
自然や先祖を崇め奉るのもまた、己のその御心に従うが故だろう。
つまるところ自分の心の写し鏡が現世の正体、自分の中にこそ神や仏が存在する。自分の中にこそ北極星があるように。
そのことをしかるべき時に思い出せるように、我々の国でも今より二千数百年前にある仕組みが作られました。
「人はどうあるべきなのか」という道しるべとして、その初代を『神武』という。
天皇というシステムはつまり、古来より伝わる人間固有の生活様式を体現する存在として生涯を生き、みんなの指標となること。
これが『現人神』システムであり、現在まで126代に渡り継承されてきた。母が子に優しく躾けるように、存在を認識するうちに自然と人として自分がどうあるべきか思い出せるように。
お天道様を見上げてありがたいと思えるように、夜のとばりが下りれば月に感謝するように。
外に目を向けずともごく自然に自分の中に答えを見つけ、またそのことに感謝の念が湧き上がるのだ。
真実かどうか、信じるもなにも、自分たちが生きている間にそれは起こるのである。
我が国から出た思いが、やがて世界をめぐって還ってくるように。
心で思ったことが、やがて目に見える形で現れるように。
陰陽の併合や精神と物質の合一はもう間もなくなのだ。