ぼくたちの望みが叶わないのは
それは自分自身が現実を複雑にしているからです。どうしてコンビニにはすぐに行けて、自らが心の底から望んでいる夢はこんなにも遠いのでしょう?
つまりはそのために頑張るという現実を自らが作り出しているからです。
望みは苦労の先にこそあるべきだと自ずから決めてかかっているからです。何故ならそのほうが人生が面白いからです。
そうですよね、そう信じたいですよね。
でもそう思っている限り、自身の夢や望みが叶うのはずーーっと先のもうこれ以上頑張れない所まで行きついた先です。
どうか大きな夢を叶えた人たちの話に耳を傾けてみてください。
彼らは皆同じように必ずこう言います。
『自分を信じて、わくわくしたことをやり続けた末に夢を掴んだ』と。
彼らは自分の人生を複雑に考えなかったのです。
自分の夢が叶うのが特別なことだと思っていなかったのです。
ただ単純にそれらのすべてを楽しんでいたのです。
たった一度だけでいいので、自らの人生をすべて自分が作り出していると仮定してみてください。
自身を『私の人生』という芸術作品の総監督だと思ってみてください。
そうするとなにかふいに自らの心からやってくる思いがありませんか?
これまでの人生の節目に何が起こってきたのか。
本当に願望は何も実現していませんか?
これまで一度も数奇な巡りあわせを体験していないとは言わせませんよ?
コンビニに行くように、自分の夢は叶えていいんですよ。でもそうならない、ですよね・・・と自身で自分をブロックしているからです。
もうわかりますよね、自らを受け入れ赦し、夢実現を許可することです。
信じることと気づくことは違う
どうかお気を付けください、信じていると、知っているとはかなり距離があります。
信じている現実とは、信じている自分を演じ続けているようなもの。
いつか夢は叶うという現実が続き続ける現実。
つまりは叶わぬ夢の最中。
知っているとは、文字通り己を知っている状態です。
例えば神様を信じている心。
神様を崇め奉るあまり、自身の成長の妨げにはなっていないでしょうか?
日々を自分以外の誰かの価値観の元に生き、良い子になって頑張っていればいつか夢は叶うと信じていませんか?
自分本来とずれていることに内心気づきながら、その現実を受け入れてはいませんか?
つまり知っているとは、自身が信じている神こそが自分自身であると確信しているということ。
自らが自らの現実を作り出していることに気付いている状態です。
自分本位に頑張ったり、周りの皆のために頑張ったから夢が叶うわけではありません。
自分らしくあるがままに輝き続ける状態を夢が叶ったというのです。
魂の終わりと夢への憧れ
夏休みや祭りが期間限定でいつか終わると思っているからそうなっているだけ。人生とはつまりそのようなものであるということ。
人生は勝手にはじまって、いつか意志とは無関係に終わると思っているのは自分だということ。
僕たちの魂は永遠だ。
そんなことはもうとっくに僕たちは気づいているのに、終わらない夏休みのようなこの輪廻に恋焦がれ続けているだけなのだ。
羨望の眼差しで恋愛小説やドラマや映画を何度も繰り返し観るように。
どうか恐れずに自分の夢を叶えてください。
映画のようにドラマチックでも美しくなくても良いではありませんか。
素晴らしいあなたの夢、それこそが最も素晴らしいものなのですから。
何故ならあなたの夢がみんなの夢だからです。
あなたの素晴らしい夢を僕たちに共有して見せてください。
きっと素晴らしいんでしょうね。
それではおやすみなさい。
素晴らしいあなたへ。