この世界は誰のモノでもない
我々人間が、どれだけ権利を主張したところで、そのいずれをもこの世界から借りているだけである。体さえも最後は返さねばならぬ定め。
苦労して手に入れたからと言って、声高に所有権を主張したところで自らの卑しさを喧伝するだけのこと。
平和に飽きた人々が暇つぶしに、お互いの主義主張をぶつけ合った果てに争いあっている。戦争は国家間で行われるものから、企業同士が代行する委託事業へと移管した。
つまり、かつて存在したイデオロギーは、より多様な社会実現のため変貌を遂げたのだ。周りをどれだけ大きく巻き込めたかが、自分の器の大きさだと言わんばかりに。
『世界はこうなっている』とか、『人とはこうあるべきだ』とか。
『きっとこうに違いない』という決めつけや、そう信じたいという願望。
人はいつの時代も自分の信じたいものを信じようとする。例えば、昔は常に戦国時代であるかのように誤解。ご先祖様に失礼千万。
少なくとも私利私欲まみれの我々よりも遥かに純粋で賢かったことは、疑たがいようのないことである。
日本列島において、動乱の時代がなかったわけではない、倭国大乱のおりと戦国の世、幕末から第二次世界大戦にかけて、それ以外はおおむね平和。
暴力や暴挙が皆無であったとは言わないが、抑圧された側が少し誇張して記録を残していても現代の我々には確認のしようもないこと。
少し考えればすべては併合のためとわかる。武によって平定というのはあまりにも浅はか、現代でも武器を作り立ち上がるのは容易い、だがしかし、いまさら隣の市町村に武器を持って押し寄せたりしないように、かつてもそうであっただろう。
とりわけ今日においても、権力や体制について、おおよそ陰謀めいた過大な表現が散見され、えてして立場の弱い側の記録が残ることもあり、記録するのもどういうわけかそうした立場であったりする。
これは恐らく時間的余裕によるものではないだろうか。体制側はいつも忙しく、皮肉なことにそうした人たちの相手をすらせねばならぬわけですから。
知識であるとか常識とされるものに、各々が思い思い照らし合わせて自分の都合を押し付ける。誰かのせいにする体質、まず責任を追及する癖を併せ持つのが大衆や組織。
確かに何故そうなったのかは大切だけれども、何か事が起こった場合、優先すべきは別の所にある。
自ら責任を取った場合も、見る側からすれば、結果的にそう仕向けた側によるものとされる。国や民を預かるとはそのようなものであった時代。
先を見据え命という誠を捧げた先人たちを愚かだと誰が言うでしょう。内情を知ってさえいれば思いを違えることなどなくなる。だからまずは知ることなのです。
知恵と知識との違い。
「知識」は知っていること、「知恵」は知っていることを活用すること。
100年先を見据えることが政治だとするならば、今の国民たちにとっては理解が追い付かず支離滅裂な内容なものばかりになるに決まっています。ゆえに、弱い立場の人たちにとって優しい仕組みを皆で支えたいものです。
加えて一時的に弱くなった人、死別とか、事件や事故によって立場が弱くなった人たちにとってつらい仕組みにならないように注視したい。
さらにいえば、これまで光の当たらなかった立場の人たちにまで少しづつ手を差し伸べ、次の世代へと世界を繋いでいく、還し奉るのだ。
残酷なことばかりな世の中にも、ある日、目の前に虹がかかることがある。虹とはつまり、あなただ。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。