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雑多な雑感――NPOの戯言59

《芸術って何?(2)》
 芸術(アート)に何を含意するのか――人それぞれにイメージする対象が異なるのでやっかいではある。ただ、それゆえにそのグラディエーションは無限とも言える。理論的には誰も芸術の射程を定めることが出来ないから。人の感性を測定することが出来ないという現実によってそれは裏書きされる。
 例えば、技術(テクニーク)という変数を加えてみる。これも定義不能だが芸術に結びつけることはできる。芸術と技術を真逆に捉える人もいるだろうが、技術・技量のない芸術はあり得ない。わたしはそう考える。
◆注:陶工、画工、彫工など、旧い言い方を用いれば技術と芸術は同義的であったと思われる。

 例えば(思いつきです)東大寺の南大門や二階堂などは文化遺産であると同時に技術の結晶としての意義がある(こんなの挙げればキリがない)。というか技術あっての文化遺産。建立を命じた人物ではなく建立の技術こそは芸術に値する。
 あるいは民藝と総称される伝統技術も外すことはできない。どこかで柳宗悦らに言及したことがあるが、今こそ賞賛されるべき特別な技能ゆえのアートと言えるのではないか。その延長線上には「日本の技術力」を支えてきた多種多様な“町工場”の洗練された職人技も見逃せない。
 また、音楽や絵画に携わっている人たちをアーティスト(芸術家)と称することも定着している。確かに特殊な能力の発信にちがいない。アニメやマンガも然り。さらにスポーツの世界はどうか。どんな競技であれ大多数の人ができない技量を見せてくれる、そして感動をもたらしてくれる人たちがいる。

 ここまで来れば芸術に通底するものを直感できるのではないか――磨き抜かれた技術・技能・芸能によって人の精神を動かすことができるもの。それらには刹那的なものもあれば永続的なものも、パッチワーク的な小さなものから太陽の塔のような巨大建造物もあるが、そうした隔たりを別にしても、肝心要となるのが精神への働き。それを刺激する歓びを芸術(アート)は与えてくれるのだと思う。

 もちろん芸術家(アーティスト)それぞれが一定の価値観から解放されているわけではない。例えば歴史的存在であるという事実から免れることはできない。むしろそうした“時代の呪縛”ゆえに苦悩が深化することもあるかもしれない(ゴッホ、ショパンなどが想起される)。とまれ、貧困に喘ぐ時代の倹しい生活の知恵がもたらす技能から、富裕な環境で生成され世界的に注視される技量を含め「人による人のための表現」が“芸術”の原基である――と思う最近のNPO(のん兵衛・ポンコツ・おっさん)。


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