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雑多な雑感――NPOの戯言㊱

《仕事⑩――あらためて仕事とは(1)》
 「仕事①」で記したように、職業に貴賤はないというのがわたしの基本的態度(「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」があるとの留保は付くが)。ただ、仕事の内実には異なる価値があるのも確かなように思われる。たぶん、その基準となるべきは他者へ貢献度ではないか。もちろん、その度合いを職種別に計測するのは無理で、例えば、ゴミ収集の仕事は公衆衛生の観点から誰の役にも立っているが、奏でられる音楽で救われる人への寄与とは異質である。観光客を引き寄せる文化財の保守に当たる人と台風で失われた橋梁を修復する人も、同じ技術者ではあれやはり比べようもない。
 それでも他者への貢献度は重要だろう。数の問題ではないかもしれない。では何が大切なのだろうか。他者の幸福度と仕事をする人の喜びが共鳴する――なんとまぁ教条的な物言いだが――これが理想であるにちがいない。そこで大切な認識は、職種の異同をわきに置いて、技術・知識・情熱の差異が反映されるであろう「人のなり」ではないか。「なり」というのは曖昧模糊としているが、さほど難しい問題ではない。何よりも立ち居振る舞い。もとより私見だが、仕事をただただ金儲けの手段とするか否か、仕事それ自体に価値を見出せるか否か。ここに大いなる差異が生まれる。たぶん、きっと。
◆注:もっとも、カネを目的に仕事を余儀なくされている人たちは数多いて(例;シングルマザー)、わたしの身近には常に存在してきた――半ばわたしも然り。

 立ち居振る舞い(態度)には「余裕」のある・なしを感じ取ることができる。ざっくり言えば余裕には物質的な面と精神的な面がある。もとより善悪の問題ではない。ただ、物質的(カネ)に余裕がなければ精神的な安定は揺らぐかもしれない(あくまでも「かもしれない」)。そして精神的な余裕がなければ、仕事の質量の低減に反映されることもある。理路整然としない話だが、両者(物質と精神)は大いに結びついている。少なくとも経験的にわたしが感じてきたことは確か。
 以下はあくまでも個人的見解(のごく一部)。カネだけを目的とする人に多々みられるのが学習への怠惰。カネのために学習する人は多いが、この場合はカネのためであって仕事へのそれではないとしておこう(両者を弁別するのも無理がある)。少なくとも学習量は少ない(「どの口が言うとんねん!」)。仕事それ自体に意義を見出せる人はより高みを望む。それは地位やカネではない、と思う。その結果として他者に与することで仕事は価値を高めるのではないか。


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