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雑多な雑感――NPOの戯言㉟

《仕事⑨――匠の技と「日常」》
 前回「プロ」について触れたが、広くイメージとして思い浮かぶのが匠と称される「技術者」のそれではないだろうか。技術者と呼ばれる仕事も広範に及ぶ。わたしの出身大学の一つに、やたらでかい工学部の建物が立ち並んでいた。わが法学部棟の30~40倍ほどか(適当)。そこに所属する知り合いの院生も「技術者になる」と宣言していた。機械・土木・建築など古くからの分野に加えて、エピステミック・コミュニティという言葉が日本でも流通しつつあったので、環境工学など、より裾野の広い分野で知見を活かす技術者が社会的土台を支えていることだろう。なかには匠と呼ぶに相応しい人たちもいるに違いない。
 ただここで言及したいのは、例えば熟練の宮大工や文化財修復士、樹木医など、大企業の土建的な仕事ではなく、特殊とも言える技能に頼らなければならない「文化」の縁の下の力持ちたちである。どんなに政治家らが「文化遺産」を誇ろうとも技術者なくして成り立たない。
 例えば、西岡常一(宮大工)の著作を丹念に読んだことがある。技術はもとより、木それ自体、やや大仰に言えば自然に関する知識と歴史への想像力、そして培ってきた技術力――それらもろもろの経験的知見の範域の広さに気づかされる。彼の場合、世界遺産の法隆寺や薬師寺東塔の再建に従事していたので、ある意味「目立つ人」だったのかもしれないが、知見と技量なくして全国のプロが彼のもとに集結することはなかったであろう。
 こうした技術を備えた人は世界中に職人として活動している。それはカネや名誉だけではなく、稚拙な俚諺を使えば「好きこそものの上手なり」という面もあるのではないか。もちろん、職業上の義務や責任はそれに勝るだろうが。ともあれ、当てにならない(かもしれない)仕事に没頭できるだけの「日常」の積み重ねがあったと想像する。
 「日常」とは朝飯を食べるのと同じようなリズムで仕事に取り組んできた人の経験の蓄積。優れた音楽家やアスリートらと同様に淡々と日常を仕事に費やすことで磨かれていく技術がある。「老練」の偉大さとは「日常」における練成の日々を通して形になっていくような気がしてならない。

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