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雑多な雑感――NPOの戯言㊸

《「生きる意味」とは(1)――人生とカネ②》
(前回のつづき)
 ではこの問いにどう応えるべきか。実のところ一般論は通用しない。例えば、カネのためにバイトに不承不承精を出すことになったとしても、それ自体が有益な経験となり将来に活かされることもあり得るし、人脈の広がりを期待できるかもしれない(いずれにも逆ベクトルの可能性があるものの)。つまり、カネで躓きを覚える人もいるが、そこから自身の可能性を見出していく人もいる。そしてカネ(こそ万能)という価値観から自由を得る人も。
 しかし「赤貧洗うがごとし」という状況が人の可能性を萎ませてしまう確率は高い(気がする)。「逆も真」が実態に近い(たぶん)。したがって、少なくとも赤貧だけは避けなければならない。その責任の一端を負うべきは「人材」とか「儲け」を価値観として掲げている「大人たち」にある。論理的にも実際的にも明らかだが、赤貧から「人材」が育つ確率は低い。「人材なくして経済成長はない」を前提にすれば、赤貧を予防する環境ぐらい整えてもらいたい。子どもを含めて赤貧の大半は本人の責任ではない(もとより全部ではない)。
◆注:この点については世界的にもほぼ証明されている。国別にみれば例外はあるが、経済成長と格差社会は負の相関にある。貧困国の格差の現状を見れば概ねその証左となる。ちなみに、目下の日本は例外の部類に属するが、貧困率と犯罪率は正の相関にある。

 そのための方策(政策)はいくつもあるが、取り急ぎ一つだけ――「子どもの貧困」を政治的社会的言語から抹殺すること。「先進国」を標榜するだけの実力があるとすれば「恥」とも言える子どもの貧困は真っ先に克服すべき、カネをつぎ込むべき最優先項目である。子ども家庭庁まで作った政府だが、目に見える成果は「ほぼゼロ(測定不能ながら)」と言っていい。
 カネの使い方を間違っているのが最大の理由。雇用(仕事)=結婚=子ども(育児)=教育・・・を総じて捉えるヴィジョンを欠いているのが少子化の遠因。ゆえに「人材」を海外に依存し続けることにもなる(必ずしも「悪い」ことではないが)。その反省から出発して予算の組み換えを行わない限りベターな社会の創生は難しい。
 カネの配分がいかに個々人の人生の「生殺与奪」に関与しているのか、財務省で椅子取りゲームに勤しんでいる人たちに理解して欲しいものだ。取り分けて「有能さ」を誇示したい人たちに。社会は「有能」と「無能」の物差し(だけで)で動いていないのですよ。
◆注:「子どもの自殺」が減少していないことぐらい「有能な人たち」もご承知のこととは思いますが。

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