雑多な雑感――NPOの戯言58
《芸術って何?(1)》
なんとなく、前回の「音楽って何?」の続きで調子こいてます。すこぶる大仰なテーマなので種々の芸術論は脇においてのつぶやき。
音楽を含めて〈境界〉を跨ぐ文化的芸術的目論見は多岐にわたる。その目論見がどうあれ、そこにこそ人としての根っこがある(と、ときにわたしは思う)。権力闘争で勝ち残ること、金持ち自慢――要は「自分は偉い」という “外向きの” 価値観みたいなものがあるとすれば、「そんなの関係ねぇ」みたいな “内向きの” 価値観もまた厳然としてある(この対比は的を射ていないとの自覚はあるが何となく汲取っていただければ)。もっとも両者の間にも重なり合う部分はあって誤解を恐れずに言えば「承認欲求」みたいなもの(これも正確に言語化できていないが)。
件について最初に想起したのは、奄美大島で赤貧のなか最期を迎えた日本画家の田中一村。死後に脚光を浴びることになったが。わたしは絵画に疎いが、彼の生き方に共鳴することは(かろうじて)できる。人としても社会的にも “内向き” であったかもしれないが、その繊細な画術をもってして “外向き” に開かれていた。もちろん表現者として「承認欲求」を持ち合わせていたにちがいない。けれどもそれに劣らぬ精神の躍動――プライドに支えられていた画業ではなかったか。だとすれば、それを支えていたのが奄美の自然美への没入にあったのは確かな気がする。それはたんなる「承認欲求」を越えた美学への欲求――そう思いつつ彼の作品に向き合うことは結構楽しい。
学生時代、友人から問われたことがある――「誰からも認められないとしても自分の作品(この時は文学)にこだわり続ける意味はあるのか?」(彼はディケンズの作品を念頭に問うたと記憶する)――それに対して「ある」と返したが、いま正直に言えば「分からない」というのが本音。「ある」と言い切ってしまえば「自己充足」に過ぎないし表現者としては埋もれるだけの「非存在」に甘んじることになる。もちろん意味はあるが誰も読まない日記みたいなもの。逆に「ない」と言えば承認されなければ無意味な行為、裏返して言えば「承認欲求」の表出である(太宰治を思い浮かべる人もいるだろう)。
何のための芸術なのか、という点については「自己充足」と「承認」の間の比重に偏りが無限に生じる。なので「分からない」のだが、確かだと思えるのは、やはり、精魂込められた作品が人びとに伝わることが芸術にとっての要諦。絶対とも言い切れないけれど。