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蘇える言葉

2024年1月1日。時刻は22時27分。
あ、今、28分になった。
友人や知人、有名人から知らない人まで。
みんながみんな、年末の挨拶をインスタでしてる。
みんながみんな、年始の挨拶をインスタでしてる。

写真で振り返る一年。
動画で振り返る一年。
写真で迎える一年。
動画で迎える一年。

「今年もお世話になりました。ありがとうございました。」

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
も。

年の最初と最後の言葉が、ぬくもりをもたなくなってきているように感じた。

今回、少ないけれど、
それでも、今までで一番多くの数の年賀状を送った。

郵便番号も住所も宛名も文章も。全部手書きで書いた。

個人に対して「ありがとうございました。」と言いたかった。
個人に対して「今年もよろしくお願いします。」と言いたかった。

不特定多数の誰かに向けて
関わりが深い浅いに関わらずSNSで繋がっている誰かに向けてではなく。

生きている人間に、生きている言葉を届けたかった。

昨年末からメッセージでやり取りすることへの苦手意識が明確になってきた。
温度も感情もあったはずの言葉が、連絡アプリやSNSのメッセージ機能を通してデータになり、無機質なものへと変換されている気がしてならない。
絵文字やスタンプで雰囲気を伝えてくれる人もいれば、全てビックリマークで感情を表現してくる人もいる。

日常会話をするけれど、日常会話のテンポで話せないし、表情も声のトーンもわからない。

文字情報だけでは、伝えることが難しく、丁寧に気持ちや考えを伝えようとして長文になると、丁寧さはさておいて、長文であることが否定される。

少し、話がズレる。

年末の紅白歌合戦。
好きな歌手グループが出てたので、その人たちだけは観た。
その場には両親と姉もいた。
僕の好きな歌手グループは20代の3人組。
歌詞は、正直言って、理解するのが難しい。でも、ダンスや演出、リズムや音源など、総力をもっての音楽芸術であり、表現だと僕は思っているので、とても楽しく、満足しながら観賞していた。
けど、母親が「何を言っているのか全くわからない。」という感想を皮切りに、軽いディスりを始めた。

一通りきいて、何も言わなかった。
これは、仕方のないものだと感じた。
昭和の歌謡曲は僕も好きだ。
歌詞がストレートで伝えたいことが明確だから。
けど、今のJ-popも好きだ。
歌詞は複雑になり、日本語だけの歌詞もあるが韓国語や英語など、複数の言語が使用されているものも多くなった。
それを「訳がわからなくなった。」と捉えるか「表現が豊かになった。」と捉えるかは価値観の違いであり、嗜好の違いでもある。だから、しかたない。

話を戻そう。
多様性の時代の下、言葉の表現も扱い方も多様になり、豊かになったと感じる。一方で、その言葉の扱い方は難しさを伴い、丁寧さを失っていっている気がする。

言葉とは、何か。

意思伝達のツールだけではない。

愛を謳い
感覚を唄い
想いを歌う。

時として、

心を切りつけることをも。

言葉とは、最も人間にとって身近なツールであり
最も人間にとって向き合わなければいけないツールだと思う。

言葉の素晴らしさ、凶暴さ、曖昧さ、豊かさ。
そういったものを含んだ言葉を
生きている言葉を扱いたい。

そういう僕も、二日前までは振り返ろうと思ってはいた。
写真も動画もたくさん撮っていたから、まとめながら思い出して、今年を振り返ろうかと思った。
でも、振り返るのは、自分の手帳の中だけにした。

感謝の言葉は、年賀状でちゃんと綴った。
送れてない人には、会った時に、ちゃんと言いたい。

言葉ともっともっと向き合いたい。
丁寧に、誠実に、時には、大胆に。

PS.
タイトルの「蘇える言葉」は、星野源さん著書の「蘇える変態」のパロディです。友人のオススメもあって読んでみたけれど、良書でした。変態とは、源さん自身のことを指しつつも、普通の人たちのことを指してもいます。つまり、みんな普通に変態なんです。「蘇える変態」とは「蘇える普通」ということであり、変態であることを当たり前と捉えて、恥ずかしくないよ、もっと変態であろうぜ、的なことを言ってます。(あくまで、自己解釈。)なので、そういった意味というか、考え方を真似したくて、「言葉」が今一度、蘇えって欲しいなという想いからタイトルにしました。
さぁ、蘇えろ言葉。

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