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学び方を教え、あとはひたすら遊ぶ〜全力で遊ぶ英語の授業を支えるもの〜


まず、写真は、カナダに留学していた時の私のノートです。

当時、私は大学卒業したてで、22歳でした。
22歳の私が授業中にこんな簡素なノートを取っていたんです・・・。

これ、日本の中学校ならば、ノート点悲惨ですよね??


でも、もし私が留学からの財産を1つあげるとするならば、このノートです。

何も、このノート自体のことを言っているわけではありません。

このノートテイキングの習慣がのちの私の英語学習を作っていく基礎となりました。

留学して初めてのTOEICは720でした。
そして帰る前の点数は890
帰国してから2か月で940に上昇しました。
ちなみに、そこから私は英検1級を取得。
(現在の私はIELTSが一番好みです)

笑わないで読んで欲しいのですが、私は22歳になるまで、「ノートをなぜ取るのか」と言う目的意識なしで、ただ先生の黒板を写す作業をしていました。
私の学生時代のノート、自慢ではないですが、すごく美しいですよ。

あなた自身は、あなたの教え子は「なぜノートを取るのか」と言う質問に即座に答えられるだろうか?

先生が黒板に線を引いたら、ペンをゴソゴソ。シュッと線を引く。
先生が消したら、消しゴムをゴソゴソ。

こんな場面、結構ありませんか??ありませんでしたか?

私が馬鹿だった・・・確かに私は能力の低い学生だった。
大学時代は高校までと違い、写す黒板が無くなったので、どうやって勉強すればいいのかもわからなくなってしまいました。

カナダで衝撃を受けました。

全然ノートなんて取らないブラジルの子がどんどん昇格していく。
先生の黒板にはおよそ落書きのようなメモ書きしか残されていなくて、何を書けばいいのかわからない。

ある日、先生こう言いました。

I wanna move on to the next level. I wanna get promoted to the Advanced Class from next month.

もうこのレベルは飽きた!アドバンスクラスに行きたい!

返ってきた答えは、NO!!でした。

「なんで?真面目に授業受けているし、もう理解しているし、ノートも真面目に書いて真面目に聞いている」

と憤る私に、先生が言います。

「うん、だからそれがダメなのだ」

「あなたは、授業に参加できていない。貢献していない。自分が理解していると言うことを十分に私に見せることができていない。」

え?どう言うこと?とは思いながら、私は反骨心剥き出しになって、次の日から猛然とアピールを始めます。とにかくディスカッションでも何でも「理解している」と言うことをアピールするために、顔をあげて話しまくりました。

ノートは綺麗には取れないので、先生が使っている知らない語句とか、言いたかったけど言えなかったフレーズなんかを走り書きでメモだけする習慣が生まれました。それらを家に帰ってからもう一度使い、文章を作るのです。

これをし始めてから、授業中の集中力は変わるわ、speakingの力は伸びるわ、writingの力も伸びるわ・・・いいことが止まりませんでした。

この習慣が読書中やおでかけ先なんかでも応用され、私は留学期間中に大学4年間の学びを遥に越す知識を吸収していきました。

おっと、ちょっと待って。

日本の「ノート取りなさいよ」は何だったのだ・・・。

ノート点とは何だったんだ。

私は、先生になってからも、「学ぶ方法」を生徒に伝え続けています。
自身の勉強の仕方さえも常に見直しながら、使えそうな学び方を伝えています。
少なくともノートに関しては、思考段階を残したり、大事なキーワードを残したり、自分の好きなフレーズを残したり、残すということが大事なんだということを伝え続けています。

そう、「再生産」という過程を経て、初めて知識を活用し、定着させることができる。

その時に書いたことが頭に入ってくるように書くわけではない。

私は授業中に私が一生懸命ボケているときに生徒のペンがさっと走ると、本当に嬉しくなります。ここからがオチなのに、というあたりで顔が下がる。もったいない・・・とは思いません。スピーキングの練習中にペンが動いていても、「今書く時間じゃないよ」とは言いません。

最近、生徒が授業が終わった後に質問してくることが増えてきました。

「先生、 I like English a lot.とか言ってたと思うんですが、 a lot ofではないんですか?」

「先生、workって言ったりjobって言ったりしているけど違いは何ですか?」

全部メモを見ながら言ってくれます。

ああ、私が喋るとき、使いたいこととか疑問に思うフレーズを走り書きしているんだ・・・・。嬉しくなります。

すでに「自走」しているんですよね。
こうなったら、何も教えなくても学び続けるでしょう。

私は最低限の文法事項や、「ここまでは合わせておこう」というラインだけは決めて、あとはクラスの求めている方向に授業を動かすことにしています。
たくさんのサンプルが出てきて、修正事案が出れば出るほど

「これどうにかして使えるようにしていこうか」と黒板を使って共有していきますが、反対に静まり返ってそれ以上深まらないのなら、あえて追加で情報は出しません。

え?格差できるやん、と思われるかもしれませんが・・・。

私は「知識」として黒板に並べられた文字たちが生徒を刺激するとは思いません。生徒が工夫をともわないノートテイキングに夢中になっていたところで、ほとんどの内容が流れていくと思っています。

最低限さえ押さえて授業をしていれば、テスト上での格差は生まれない。

学習法を確立し、もっと欲しいなと思える生徒は自走を続ける。

コミュニケーションに重きをおき、ゲラゲラ笑いながら授業をしても、

「え?今日の授業何やったん?」

と言われないのはこのあたりなのかな・・・と勝手に思っていますし、反対に私が「学び方」をうまく誘導してやれなかったら、私の授業には速攻でクレームが殺到するだろうなとも思っています。その辺りは常にバランス感覚を大事にしながら、相当プレッシャーを感じる部分でもあります。

生徒が自走をしている時って、知識がガソリンになるんです。
それを感じながら前に立つ快感は忘れられないです。


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