ザ・日本人を打ち破れ!〜日本の教室文化を変えたい〜
久しぶりに投稿します。
実は最後の投稿まで、毎日投稿を続けていたのですが、仕事が忙しくなってきたので、一度止めてみました。「書きたい!」という衝動が再びやってきたので、パソコンに向かっています。
さて、タイトルの「ザ・日本人を打ち破れ!」というのは、実際に私が中学2年生の英語の授業中に、「本日の目標」に書いたものです。
おっと・・・
ところで、私はこんな人。
私はこんな人
公立中学英語教師10年目。
今年の夏よりアメリカ、ミネソタ州にある州立大学にて第二外国語教授法(TESOL)修士課程開始予定。大学院ではアシスタントシップのポジションをいただき、留学生に英語を教えながら、自らの実践と研究を進めていく。
「ザ・日本人を打ち破れ!」なんていう授業目標を掲げたのには理由があります。
今年、自分が2年間担当していた学年を離れて、2年生を担当することになりました。1年生の時から担当している場合と違って、自分の授業スタイルに慣れてもらうためにはそれなりの時間を要します。そのことはすでに経験上わかっていたのですが、予想通り苦しい4月となりました。
私の授業スタイルは、未だ模索中のものとはいえ、一口で言えば「使う、話す」です。自然なコンテクストを設定し、文法ベースになりすぎず、あくまで英語は使用するもの、言うにしても書くにしてもまずはコミュニケーションの1手段であると言うことを中学生段階で理解してほしいのです。
この学年が始まって二週間くらいだったでしょうか。
事件は起こりました。
それまではどちらかと言えばALTとの授業やターゲット文法を用いたパターンプラクティスを生徒の慣れた形で行っていたので、生徒は活発そのものでした。
そろそろ私にも慣れてきただろうと、判断したので、早速アクティビティを含んだ授業構にシフトしました。
最初に述べておきますが、そのためだけにオーストラリアに研修に行ったくらい、「インストラクション(指示)」には神経を使っています。短く、簡潔に、視覚的補助を用いて英語で指示を出していきます。
しかし、プリントには「ここにこれを書くんだよ」とは表示がありません。
会話ベースのアクティビティには「これを使いなさい」「ここまで話しなさい」と言う指示はありません。
アクティビティのサンプルを生徒の協力をもらって行ったら、いざスタート。
Are you going to~?, What are you going to~?の使い方は知っている状態で・・
生徒A Are you going to play games after school?
生徒B Yes, I am.
私が尋ねます。
「Yes, No」だけ聞いて終わったペアは?
すると、全員が手を挙げます。
次に尋ねます。
「お互い尋ねたペアは?」
手はほとんど上がりません。
私が演じます。
「よし、じゃあ日本語でやってみるね。
なあ、お前今日ゲームするん?
うん、するで!
(ダンマリ。見つめる。静かに前を向き直す)
生徒が笑います。
私が尋ねます。
なんで笑うの?
すると生徒が「だって、それおかしい。お前が聞いたのに答えたら無視って」
私が問います。
「You are doing exactly same things.」
そして続けます。
「どこまで続けなさいと言われて会話する、そんなこと普段の生活である?
これしか使っちゃいけないなんて普段の生活である?
いちいち文法のミスを一語一句指摘してくる友達と友達でいたい?」
このあと、生徒たちはAre you going to~を無造作に連発することをやめました。そして、How about you? Me, too. Well, のような知識化石になっていたものを使い始めました。
私がサンプル中に、Oh, what is your first name? Mine is Yoshi, what is yours?と下の名前を聞くと、活動中にも下の名前を尋ねる会話が生まれます。
こうなったら、もう授業としては大成功。
どんなに難しいアクティビティでも、生徒は簡単に乗り越えます。
壁を乗り越えたら、生徒は自分で動き出すものです。
もうお分かりかもしれません。
私の言う「ザ・日本人」の正体。
私は
①日本人の気質
②学校の“価値観“
がこの「ザ・日本人」を育成していると考えているので、ここを変える、或いは変わってもいいかなと思える気持ちを育てなければ、日本の英語教育は変わっていかないと思っています。
私が22歳でカナダに留学したときに、先生から言われた一言を思い出します。
「ノートをきれいにまとめようが、真っ直ぐ私のほうを向いて話を聞いていようが、あなたは授業に参加をしていない」と。
授業中に学んでいることを思考し、試行錯誤して使用し、Feedbackを求める機会として発表をし、自己表現の機会として或いは集団の討議が円滑に行くように話を受容したり、反駁したりする。
ノートはメモ、思考のヒントとして捉え、家に帰ったらメモをもとに授業をリプレイする。その結果、ノートもきれいにまとまる。思考が書き込まれたノートが完成する。
恥ずかしい話だが、私は22歳になるまで「勉強とは先生の話を聞き、ノートを写し、テストで良い点をとる」ことだと思っていた。
確かに授業態度が良いのは日本の学生の素晴らしいところだ。
確かに授業規律はとても重要なファクターだ。
でもそれだけでは、いつまでたっても「深い学び」には辿り着けない。
隣の人が手をあげるからあげる。
隣の人が大きな声で読んでいるからよむ。
指示が分からないからとりあえずフリーズする。
何をしたらいいか分からないからとりあえずやっているふりをする。
求められたものに的確に答え、求められていないものには興味を持たない。
この「ザ・日本人を打ち破れ!」と題した授業の最後、
自己評価シートのA B C の欄に Sと書き込んだ生徒が3人いたことに、私は幸せを感じている。
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