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Vol.506「都知事選は民主主義の〈劣化〉の極みだった!」

(2024.7.16発行)

今週のお知らせ

※「ゴーマニズム宣言」…先日の東京都知事選は、民主主義の劣化を見せつけるものでしかなかった。昔から選挙のたびに、奇妙奇天烈な主張をする「泡沫候補」と言われる人たちは出てきたが、それは「お笑い」で済ませられるものだった。ところが今回、特に「N党」とかいう奴らは、最初から選挙戦そのものを完全に茶化しまくって、ぶち壊してやろうという悪意に満ち溢れていた。どんなバカが出てこようとも、それ自体も民主主義の結果であるのだから、これを「劣化」と呼んではいけないとかいう、一見ものわかりのよさそうな意見もあるが、これは、そもそも民主主義の根本を理解していないから出てくる物言いである!
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…7月26日からパリでオリンピックがはじまる。表彰式では金メダルをとった選手の国の国歌が演奏されるが、そもそも「国歌」の源流は、16~17世紀のヨーロッパの国々で、王室のために献呈された楽曲にさかのぼる。多くは、賛美歌や行進曲だった。20世紀になって、スポーツの国際試合などで他国の国歌を聴く機会は増えたが、メロディに覚えがあっても、歌詞の意味まで知るものはほとんどない。だが調べてみると、国歌はその国家のアイデンティティを体現しているということがよくわかる。今回は日本・イギリス・フランスの国家を比べながら、どんなアイデンティティが読み取れるのか見てみよう。
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」…宇野常寛氏が言っていた「21世紀のミュンヘン一揆」はもう目の前?皇族方をモノ扱いしている人でなし男系派を抱きしめることなどできる?ギャグ漫画には、無秩序で破天荒で常識の吹っ飛んだ発想が必要?よしりん先生にとって「初恋」はどんなものだった?…等々、よしりんの回答や如何に!?


1. ゴーマニズム宣言・第535回「都知事選は民主主義の〈劣化〉の極みだった!」

 先日の東京都知事選は、民主主義の劣化を見せつけるものでしかなかった。
 ところが、「これを民主主義の劣化とは思わない」などと言う者がいる。劣化を感じない人に何を言ってもしょうがないのだろうが、感度鈍すぎでしょう。

 昔から選挙のたびに、奇妙奇天烈な主張をする「泡沫候補」と言われる人たちは出てきたが、それは「お笑い」で済ませられるものだった。
 30年以上前の都知事選では、歯のない口でモゴモゴと何を言ってるのか全く聞き取れない政見放送をやっていた婆さんがいて、あまりにもインパクトが強かったものだから初期の『ゴー宣』でギャグに使ったりもしたが、以前は本当に、単なるギャグで済んだのだ。

※2002年、91歳で死去。
この作品を描いた時点(1993年)ではまだ存命で選挙にも出ていたらしい。

 昔の泡沫候補は、当時から笑いの対象になっていたけれども、本人はそれなりに真面目だった。大真面目だけれども、言っていることが変すぎるという者ばかりで、本人にはふざけたり、おちゃらけたりするような感覚はなかった。
 ところが今回、特に「N党」とかいう奴らは、最初から選挙戦そのものを完全に茶化しまくって、ぶち壊してやろうという悪意に満ち溢れていた。
 一人しか当選しない都知事選にN党は24人も立候補させて、ポスター掲示板に同じデザインのポスターをズラッと並べて見せた。しかもN党は一定額の寄付をした者にはそのスペースに自由にポスターを貼れるとして、ポスターのスペースを事実上「販売」し、選挙ポスターの掲示板に風俗店の紹介だの、有料SNSへの誘導だのといった選挙と全く無関係のポスターが貼られ、中には裸同然の女性のポスターまであったという。

 選挙ポスターの掲示板に、そんなポスターを許していいはずがない。しかもN党が24人も立候補させたせいで、立候補者の総数は史上最多の56人にまで膨れ上がってしまい、選挙管理委員会が設置した掲示板は48人分しか枠がなかったために、クリアファイルに入れたポスターを、掲示板の外側に画びょうやガムテープで止めるという扱いをさせられた候補もいた。
 当然ながら、それではポスターが風に飛ばされたり、曲がったりしてきちんと見ることが出来ず、そんな掲示をさせられた複数の候補が「公正な選挙に反する」などとして都を提訴したが、それは全く正しい訴えだというしかない。本来なら悪いのはN党であり、同じポスターを何枚も貼ったりしているのを剥がして、そこに貼らせてやるべきだったのだが。

 言うまでもなく、あんな「掲示板ジャック」なんて行為は単なる悪ふざけである。何ひとつ生産的なものはなく、ただ自己顕示欲や破壊衝動を満足させようとするものでしかなかった。
 法律的には問題ないというが、それは、そんなことをやるバカがいるとは誰も想定していなかったからだ。
 法には書いていなくても、誰もが当たり前のこととして守るルールやマナーというものがある。ところがそこに、法で禁止されていなければ何をやってもいいのだと居直る奴が現れて、無茶苦茶やり始めたのだ。これを劣化と言わずして、何と言うのか?
 今回のN党のやり方は誰だって常識的におかしいと思うはずで、肯定的に見る人などほとんどいないだろう。
 不文のルールを根本から無視して来る非常識な奴が出てきたら、それはダメだと注意し、そんな奴が出てくる現象は劣化であると指摘するのがまともな大人の感覚だろう。
 昔の泡沫候補は、おかしな主張ではあっても一応は自分の主張を持っていた。しかし今の泡沫候補には主張らしい主張もなく、ただ選挙を遊びの場にしてしまっているだけなのだ。
 どこからどう見たって、確実に劣化している。「大劣化」と言っていい。

 どんなバカが出てこようとも、それ自体も民主主義の結果であるのだから、これを「劣化」と呼んではいけないとかいう、一見ものわかりのよさそうな意見もあるが、これは、そもそも民主主義の根本を理解していないから出てくる物言いだ。
 民主主義が最初に人類の歴史に登場するのは、古代ギリシアの都市国家(ポリス)で、中でも代表的なのは紀元前5~4世紀のアテナイである。
 そこで民主主義に参加することができた「市民」とは、「兵士」のことだった。命を賭けて共同体を守るからこそ参政権が得られたのであって、女や奴隷には民主主義に参加する資格はなかったのだ。
 つまり民主主義というものは、もともと参加する資格に制限を加えなければいけないようになっているのであって、無制限に参加を許したら、堕落していくのは避けられないものなのだ。
 それなのに、今は全く資格を問われない。せいぜい供託金が必要なくらいで、カネさえ払えば公民権停止にでもなっていない限り、誰でも立候補できる。それでは民主主義はどんどん劣化していくのが当然の帰結であり、その劣化の見本が先日の東京都知事選だったわけである。

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