孤独について
久しぶりに孤独を感じた。どうしようもない寂しさを抱きしめて泣く。そうやって痛みを確かめる。
この孤独は、私だけの孤独だ。
꙳
ヤマシタトモコ『違国日記』を読んだ。
(2024年、新垣結衣主演で映画化するらしい。
絶対観に行く。)
色んな人の生きづらさが描かれていて、そのどれもに寄り添っている、とても素敵な作品だと思った。
このシーンの槙生さんの台詞に震えた。「ああ、苦しんでいいんだ」とそう思って、涙が出そうになった。彼女の思考や発言は、日頃の私にあまりにも馴染むものだったから、槙生さんに感情移入しながら一気に読んだ。
꙳
私の夫は、私が何かを読んでいると必ず「何読んでるの?」と聞いてくる。彼はマンガも文学作品も読まない。私の好きな作品が彼とかぶることはほとんどない。そして彼がそれらに興味を持つこともない。
だから、その質問以上に話が膨らまないことは分かっている。なのに聞くのだ。
穿った見方をしてしまう。すなわち、どんなものを読んでいるのかで、私の状態を確認しているのではないか、と。怪しい類の作品ではないか、精神状態は異常でないか、健全か。精神が不安定な妻を持つ夫としては、まあ正常な思考回路だといえる。
でもごめんなさい、そういう意味でいうと、だいたい健全じゃないかもしれません。少なくともあなたにとっては、理解できないものだと思います。物語で癒される感覚、あなた分からないでしょう?
ていうかさ、聞くならちゃんと責任持って聞いてよね。私はこの作品についてすごく語りたいけど、ちゃんと聞いてくれる?聞かないよね?興味もないよね?じゃあ詮索しないでほしいな。
いたたまれなさと、軽い苛立ち。
そしてその苛立ちはけっこう尾を引く。消化しきれず、私はつい聞いてしまったのだ。
「あなた、生きづらさを感じる事ってある?」
答えはNOだとわかっていたけれど、もしかしたら何か会話の引っかかりが生まれるかもしれない、なんて淡く期待しながら。
「全く」
結果、一刀両断。次の瞬間には会話は次の話題に。
メンタルブレイクしている私は「拒絶かな」と思ってしまう。自分でタネを撒いて、自分で傷つく。
こういうナイーブな話、つまり私が好んで話しそうな話になると、彼のシャッターは降りる。それがシャッターなのかどうか確かめるのも怖いので、私もそこで引き下がる。けれどもそのことで私の孤独は深まる。
「別に共感しろとは言わない。そんなのは嘘っぱちだから。でも、話を聞くくらいいいじゃないか。それが寄り添うってことじゃないのか。夫婦なのだから。」
そこまで考えて、思考はまた元のところに戻る。
「夫婦だから寄り添え、はあくまで私の主観だ」
「彼には彼なりの事情があるのだ」
そう、聞き分けの良い自分は諭す。
「じゃあ、私のこの寂しさや怒りはどうしたらいいの?」
と別の私が駄々をこねる。そうやって、少しずつ私は不機嫌になる。
私は私の感性を誰かと確認し合いたいだけ。なのに。
それで、孤独。なんと可愛らしい孤独。
でも私にとっては切実な孤独。
朝ちゃんの悩みみたいだ。悩みに貴賤はない。孤独にも貴賤はない?
(朝ちゃんかわいい)
わかってる、オーダーメイドの慰めなどないと。人は生きている限りずっと孤独で、誰もが誰かのことを100%理解できることはない。
でも、自分の表面の凸凹をひとつずつ共有することはできないものだろうか。そういう場所が、どこかにあればいいのに。
そう思って、私は今日も文章を書く。
凹凸が合う人に出会えることを祈って。
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