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秋篠寺の歌碑

お寺を巡る際、歴史・建造物・仏像について調べたり鑑賞したりする方は多いと思いますが、意外と見過ごされがちなのが境内に点在している歌碑の存在ではないでしょうか?
(奥まったところにあって、気づかない場合も…)

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私自身、お寺を訪れても歌碑や石碑をスルーすることが多々あったのですが、境内図を見ながら歌碑を探すことの楽しさ(スタンプラリー的な感覚)に気づいてからは時間が許す限りは探して写真を撮るようになりました。

石碑の中には意味がよく分からなくて「これは一体なんなのだろう?」と消化不良気味で終わるものが多いのですが、歌碑は目的がはっきりしているので、見つけて歌の意味を考えたりするととても楽しいのです♪(もちろん歌碑にも読めない&意味が分からないものもありますが…)

ってな訳で、今回は先日訪れた秋篠寺の歌碑をご紹介したいと思います!

Let's 歌碑探し!

まずは受付でもらった歌碑マップ(もとい境内図)を確認。

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赤丸で囲ったところが歌碑の位置です。

歌碑1

秘仏となっている大元帥明王が安置されている大元堂の裏手(周辺に木々が茂っていて見つけづらい場所)に、この石碑はあります。

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自然な形の石が用いられていて、苔むした感じが秋篠寺の雰囲気と合っていますね〜。
昭和32年5月3日建立とのこと。

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歌碑にはこう書かれています。

諸々のみ佛の中の伎芸天何のえにしぞわれを見たまふ(川田順)

伎芸天の視線が私に注がれている…
お堂に入って伎芸天の前に立って眺めていると、確かにそんな気持ちになりますね。
川田順氏のことを調べてみると、ずばり『伎芸天』というタイトルの歌集を出されているので、よほどの思い入れがあったのだと思います。

歌碑2

続いては受付の西側にある歌碑です。
昭和44年6月15日建立。

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贅肉(あまりじし)なき肉置(ししおき)の婀娜(たをやか)にみ面(も)もみ腰もただうつつなし(吉野秀雄)

こちらも自然石を利用した歌碑のようですが、さきほどのものより新しいですね。
吉野秀雄は群馬県出身の歌人で、文体の骨格や語彙から万葉集の影響がうかがえるそうです。

歌碑3

最後は南門北側にある会津八一の歌碑です。

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裏面に昭和庚戌(昭和45年)の銘があり、秋篠寺境内の中では一番新しく建立されたものであることが分かります。

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あきしの の みてら を いでて かへりみる いこま が たけ に ひ は おちむ とす(会津八一)

ひらがなで里の夕暮れが詠まれています。
分かりやすく漢字を入れたものも以下に記載しておきます。

秋篠のみ寺をいでてかへりみる生駒がたけに日はおちむとす

この歌碑を見た後に、秋篠の地から生駒山に沈む夕日を目にしたら、なんともいえない気持ちになるでしょうね〜。

秋篠にまつわるその他の歌

さいごに、パンフレットに掲載されていた秋篠にまつわる歌も掲載しておきます!

ながき夜の生駒おろしや寒からむ秋篠の里に衣打つなり(壬生家隆)
秋篠や外山の里や時雨らむ生駒の岳に雲のかゝれる(西行)
あきしのや外山の里はきりたちて稲葉のすゑをわたるかりがね(福田行誡)
秋篠の伎芸天女の印むすぶゆび細々と空(くう)に定まる(鈴木光子)
伎芸天女寒きしじまの夕にすら匂ひこぼれて立たせ給へり(松山ちよ)
秋篠はげんげの畦の仏かな(虚子)
東門は少し小さく萩も咲き(素十)
一燭に春寧からむ伎芸天(青畝)
あしび咲く金堂の扉にわが触れぬ(秋桜子)
一枚の障子明りに伎芸天(汀子)
行春の女身ゆたかに伎芸天(美穂女)

ちなみに、鎌倉の復興期に、秋篠の里は「外山(とやま)の里」という歌枕として知られるようになり、霧と時雨の名所として都の歌人たちに愛されるようになった。とのことです。

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