三輪車とマラッカの夕日 - 3
ジョンカーストリートの熱に浮かされた夜が明け、僕は朝からマラッカの町を散策していた。どこへ行くでもなく町をぶらつき、適当に入った土産物店でポストカードを買う。昼には名物のニョニャラクサを食べた。思っていたよりも辛くて汗をかいた。歩き疲れたらゲストハウスに戻って、本を読みながらのんびりと過ごす。しばらくしてまたブラブラと町を歩く。僕はすっかりこの町を気に入っていた。
ただこの居心地の良いマラッカにも一つだけ、どうしても好きになれない物があった。
僕は旅先で出会うローカルな乗り物が好きだ。乗り物は食事や絶景にも負けない大きな旅の醍醐味だと思う。短期留学の時にセブ島で乗ったジプニーやトライシクルは便利な移動手段であると同時に、ちょっとした非日常を感じられるアトラクションだった。国内旅行でも僕は田舎の寂れたローカル線や海沿いの観光フェリーを見るだけでわくわくして乗らずにはいられなくなる。乗り物はいつでも旅情を高めてくれる。
マラッカの街にはトライショーと呼ばれる伝統的な乗り物があると聞いていた。客用の座席がついた人力の三輪車で、観光客向けに名所を回ってくれるらしい。出発前に読んだガイドブックには黄色や赤の花飾りがついたレトロでかわいらしい車体が写っていた。一人で乗るのは恥ずかしそうだなと思ったけれど、旅の恥はかき捨てだ。これに乗って町を回れるならきっと楽しいに違いない、と僕はひそかに心躍らせていた。
しかしそんな僕の期待は、マラッカの街に着くや否や見事に打ち砕かれた。マラッカの町を走るトライショー、それはガイドブックで見たレトロな姿とはあまりにかけ離れたド派手な装いをしていたのだった。
白にピンク、青、黄色、水色などのけばけばしい花飾りをこれでもかと着けた車体。車両前方や座席の後ろにはドラえもん、ハローキティ、アナと雪の女王、アイアンマン...etc といった世界中の人気キャラクター達のぬいぐるみが貼り付けられ、いたるところに「著作権侵害上等!」といった様子で賑やかにキャラクターの絵がプリントされている。中にはスピーカー付きの車両もあるようで、周囲には大音量のlet it goが響き渡っていた。著作権だけでなく他にもたくさんの何かを侵害している気がした。
暴力的なまでにポップとメルヘンに彩られた車体に反して、運転手たちはみな安っぽいTシャツにジーパンを履いたおじさんだった。その間抜けなギャップに関してはなんだか可愛らしくて愛せる気がしたけれど、いずれにしても僕は絶対にこんなものには乗るまいと固く決意していた。こんな派手な三輪車で町を走るなど恥ずかしくて僕にはとてもできない。
しかし恐るべきことにこのトライショー、非常に人気のようで、しばらく眺めているといい年をした観光客たちが次々と乗り込んでいく。客を乗せたトライショーはパレードのごとく町を練り回る。無表情で静かに乗っている夫婦もいれば、笑顔のカップルもいる。わざわざ乗っておきながらおしゃべりに夢中な女性同士の客もいた。ただ、どの客も派手すぎるこの車体の見た目に関しては気にしていないように見えた。
僕はせっかくの町並みがトライショーによって損なわれることに腹を立てていた。
「こんな飾りをするセンスも理解できないが、喜んで乗る客にも問題があるんじゃないか」
「せっかくの町並みなのにこれでは情緒もへったくれもない」
「資本主義の弊害がこんなところに現れるとは」
「文化や景観を守ることを真面目に考えるべきだ」
などと余計な言葉が頭の中に浮かんでは消えた。
厄介なことに、このトライショーは街のあらゆるエリアを走り回っていた。オランダ広場の鮮やかな景色の中にも、河岸ののんびりとした風景の中にもそれは現れた。せっかく情緒ある風景に心を任せてリラックスしていてもトライショーの姿が見えるたび、それは一瞬にして台無しになってしまうのだった。
次第に僕は興ざめしてしまい、マラッカの街自体にも魅力を感じなくなっていった。もう十分に町並みは堪能したし、昨夜のナイトマーケットはとても刺激的で忘れられないものだった。旅の最初の町にしては十分すぎる経験をしたのだから、あとは宿に戻ってのんびり過ごすのもいいかも知れないな、と考えた。すでに翌日のクアラルンプールの宿を予約しているので、明日の昼にはマラッカを発つ予定だった。
しかし僕はこの街を去る前に一つだけ、どうしても見ておきたいものがあった。
マラッカの夕日。
旅に出る直前、インターネットでマラッカについて調べていると、ある記事にこんなことが書いてあった。
バックパッカーのバイブル「深夜特急」にも描かれているマラッカの夕日はとても幻想的で美しく、世界三大夕日にも数えられています。
沢木耕太郎の「深夜特急」は旅人の間ではあまりにも有名な本なので、僕も出発前に全巻読破していた。このマラッカの夕日のシーンはさして劇的に描かれているわけではないのだけれど、旅の最初の目的地が深夜特急の舞台である、という偶然(それほど珍しくもないが)に必要以上に浮かれた僕は「絶対にマラッカで夕日を見るのだ」と強く決意していたのだった。
昨日は午後から曇りになってしまったので夕日を見るのは諦めたけれど、ありがたいことに今日の空は晴れていた。僕は夕日の見られそうな場所を探して海岸の方面へ足を運んだ。
海の近くまで行けばどこでも夕日なんて見られるだろうと高をくくっていたのだが、海沿いにはホテルが建っていたり工事中の柵に囲まれていたりで、そもそも海を眺められるような場所が少ない。困った僕はスマホを開き夕日が見られそうな場所を探した。少し離れた場所に岸から海に長く飛び出した桟橋のような建物が見つかったので、僕はそこへ向かうことにした。
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薄暮の穏やかな海に向かってコンクリートの桟橋が一直線に伸びている。正確には「コンクリートで出来た長屋状の建物が岸から海へ突き出ている」と言った方が適切かもしれないけれど、とにかく僕は無機質で寂しげなその建物の中を、海へと突き出した先端へ向かって歩いていた。
僕が航空写真で見つけたその建物は潰れた商業施設だった。建物の中には、割れたまま放置されたネオンサインや、カラオケの案内板、埃の積もったバーカウンターなどがあって、かつては若者や観光客で賑わうナイトスポットだったのだろうと想像できた。廃れて寂しい雰囲気の場所だった。
桟橋の先端、海が見渡せる場所までたどり着いたとき、腕時計の針は17時過ぎを示していた。空はまだ明るく、日が沈むまでにはしばらく時間がありそうだった。よく見ると水平線上には細く雲が広がっているので太陽の沈む瞬間は見られないかもしれないな、と思った。
リュックを床に降ろし中からカメラを取り出す。日の沈むであろう方へレンズを向けてカシャ、カシャ、と数枚シャッターを切る。絞りとシャッター速度を少しずつ変えながら続けて撮り続ける。しばらく撮り続けていたが日の暮れるスピードは意外に遅く、まだ目の前には夕焼けともいえないはっきりとしない色の空が広がっている。
ひとりシャッターを切っているとなんともいえない寂寥感に襲われた。誰も知っている人のいない異国の地の寂れた建物の中、一人取り残されたような感じだった。わざわざ日本からこんな所までやって来て自分は何をしたかったのだろう、とまた、考えても意味のないことばかりを考えていた。そんなとりとめのない時間を過ごしているとやがて日が沈み始めた。
薄く曖昧なオレンジ色をしていた空の色が次第に濃くなっていく。西に広がる埋立地に置かれた工事車両のクレーンの影が物憂げで少し切ない。いよいよ朱さを増した夕日は海と空と町を静かに照らす。いつも余計なことばかり考えている僕のちっぽけさをあざ笑うかのように、圧倒的にマラッカの夕日は美しかった。
結局水平線上の雲が晴れることはなく、日の沈む瞬間を見ることはできなかったけれど、僕は満足していた。これでもうマラッカでやり残したことはない。
僕は薄暗くなった町の中をゲストハウスへと引き返していた。夕日の感動の余韻を引きずりながら、とぼとぼと歩いていると目の前にオランダ広場が見えてきた。やけに賑やかだなと思って目をやると、ただでさえ派手な車体にビカビカと電飾を光らせたトライショー達が客待ちをしている。夜のトライショーは昼間以上に周囲に存在感を撒き散らしていた。
マラッカの海に沈んでいった夕日の静かながら圧倒的な感動と、目の前に現れた節操のない人工的な光が頭の中で謎の衝突を起こし、僕はなんだか酔っぱらったような気分になった。色々なことがどうでも良くなり、気が大きくなっていた。
僕はトライショーの集団に近づくと一人の運転手に話しかけ、町を回ってくれと頼んだ。彼の自慢のトライショーはやはりド派手で、もはやエレクトリカルパレードのようだった。アナ雪仕様のその車両の前方には大きなオラフのぬいぐるみが取り付けられている。運転手は40代前半くらいの痩せたおっちゃんだった。
おっちゃんと僕のエレクトリカルパレードがマラッカの街を走り出す。
周りにも同じような観光客はちらほらといたが、乗っているのはカップルや夫婦が多く、僕のような客一人だけの車両は見当たらなかった。それもなんだか今はどうでもよかった。
「チャイニーズ?」とおっちゃんに聞かれたので「ジャパニーズ」と答えると「オー、コンニチワ、アリガトウ、ゲンキデスカ」と知っている日本語を披露してくれた。その後彼は
マラッカにはどのくらい滞在するんだ?
次はどの街に行く?
いつから旅をしてるんだ?
などとと矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。僕のようなバックパッカー風の一人客にはだいたい同じような質問をするんだろうけど、お互いに拙い英語でのやり取りだったせいか、かえって心地よいテンポで会話が進んだ。
おっちゃんはお喋り好きな性格らしく、行く先々で、この近くに親戚が住んでいるだとか、あの食堂のチキンライスが美味いだとか、こちらの聞いてもいないことを次々と教えてくれた。人懐っこい顔をした人だった。
しばらく会話が続いたことで気分が上がってきたのか、おっちゃんが
「この車は音楽も流せるんだよ。流してみるか?」
と聞いてきた。一瞬躊躇ったけれど、もはや断る理由もないかと思い「うん」と答えると、僕の座席の前に取り付けられたスピーカーから大音量で「let it go」の例のイントロが流れ始めた。
イントロが終わり寂しげなAメロが流れる。僕の頭の中には、氷でできた城と、その前で悲しげな表情で歌を歌う女性が現れる。Bメロに入ると少し希望を感じさせる曲調に変わり、女性の表情も力強くなる。Bメロの終わりから次第に曲は盛り上がり、もうお馴染みになったあのサビがやってくる。
おっちゃんと僕のエレクトリカルパレードは無駄に劇的な雰囲気を纏いながらマラッカの町を走る。電飾は相変わらずビカビカと眩しいほどの光を放っている。辺りを見渡すともはや昨日から親しんだマラッカの町並みの情緒は何一つ感じられなかった。僕たちは今、歴史に彩られた美しい町の中をその趣も景観も温かみも、全てを台無しにしながら走っていく。僕は楽しくなって一人で笑っていた。とても愉快な気分だった。
面白い町だね!
と僕が言うとおっちゃんも楽しそうに笑っていた。
今度こそ、この町でやり残したことはもうないなと思った。
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