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再現性がない??MITの誕生秘話

 現在私が代表理事を務める一般社団法人MITは、対馬生まれ・対馬育ちの地域づくり団体です。2017年に地方自治法施行70周年記念 地方自治功労者総務大臣賞を受賞しました。立ち上げから5年目の快挙でした。初代の代表理事 細井尉佐義さん(一本釣り漁師:海子丸船長)をメンターに、実務トップが専務理事 川口幹子さん(元地域おこし協力隊)だった初期のMITの功績を行政から評価されたものです。

地方自治功労者総務大臣賞を比田勝市長から授与(2017/12/27)

 ベンチャー企業の生存率が創業から5年後は15%、10年後は6.3%と言れる中で、MITは低空飛行・自転車操業ではあるものの、創業から11年たった今もまだ生き残っています。これは単に、MITに仕事をくださるお客様や商品を購入していただけるお客様、そして、プロジェクトに協力・共創してくださるパートナーの皆様、そして優秀で真面目な従業員の皆さんのサポートのおかげです。

 とはいえ、生き物は、生まれてから大人になるまでの生存率が低いものです。法人も同じだと思います。MITが生まれ、成長するまでの助走期間は、誰が見ても危なっかしい法人であり、生き残れたのは、偶然の幸運が重なった奇跡の結果でもあると思います。当時のタイミングだからこそできたし、対馬だからできたのかもしれず、もう一度同じことができるとは思えません(再現性がないものかもしれません)。

 しかしながら、MITの立上げ時期の経験やノウハウが何かしら明文化できたり、説明できるようになれば、他地域の実践者・起業家、地域土着の民間事業者を育てたい行政にも役に立つヒントが提供できるのでは。ひいては、各地域でMITのような地域づくり組織を生み出し、増やしていけるのでは。これまで視察にMITを選んでいただいた多くの皆さんもこのことを知りたかったはず。

そこで本日は、MITの誕生の経緯を綴ることで、地域づくり団体を地域で生み、育てていくための何かしらの秘訣や、体系化できることを探ってみようと思います。


地域おこし協力隊らが立上げたMIT

 MITは2013年3月に登記・設立されました。代表理事は、対馬にIターンして一本釣り漁師(海子丸船長)になった細井尉佐義さんです。会社の名付け親は、設立の旗振り役で専務理事を務めた川口幹子さんです(川口さんの紹介は私の過去のnoteでもご覧ください)。マサチューセッツ工科大学の関連会社と間違えられることもたまにありますが、会社の理念である対馬の地域資源を「みつけ(M)、いかし(I)、つなぐ(T)』の日本語の頭文字です。

 設立は、島おこし協働隊の川口さんと、同じく協働隊の同期で島デザイナーの吉野由起子(旧姓松野:その後私の妻になった人)、そして環境省のヤマネコセンターでアクティブレンジャー(嘱託職員)として働いていた坂口みろさん(旧姓一條)の移住者3名が発起人(出資者)として関わりました。それぞれがやりたい対馬の観光・教育・デザインを事業化するための受け皿を作ったそうです。

 MITを設立したタイミングで、対馬市が総務省の域学連携に関するモデルに採択されました。この事業は、対馬における地域づくりと全国の大学の実践教育を共創させて新たな価値を生み出すことが目的ですが、地域と大学の繋ぎ役として中間支援組織が必要でした。そこで白羽の矢が立ったのが、対馬市島おこし協働隊として実践型の教育事業を限界集落をフィールドに始めた博士号を有する川口さんであり、川口さんが立ち上げたMITでした。

設立当初のMIT集合写真

社名やビジョン以外ほぼ未定だったMIT

 持続可能な地域社会づくりを目指して、地域資源をみつけ・いかし・つなぐ。大きく野心的なビジョンとネタになる強烈な社名。それ以外はほぼ何も決まっていなかったので、若気の至りというか、乗りと勢いだけで作ったんではないかと思われてもしかたない状況で、今振り返ると、良く起業したなと思います。まあ、起業なんてどこもそんな感じでしょうか。

 対馬市から域学連携事業の中間支援組織として業務委託をするという話があったものの、当時のMITの体制は、代表理事が漁師、発起人3名がそれぞれ行政の嘱託職員として働いていたため動ける人材が不在の状況でした。対馬市からの大きな委託業務を受けるにあたっては、大きな壁も少なくとも2つありました。人の問題と行政の規則の問題です。

人の問題

 対馬市役所と仕事をするにあたっては、行政のことを知り尽くした人材、なおかつ、事務全般を担える人材が必要でした。そんな人材、通常どこ探しても見つかりませんし、いたとしても、辺境にある対馬に移住し、地域おこし協力隊が立ちあげた出来立てほやほやの会社に転職する人なんかまずいないでしょう。しかも、2-3ヶ月後には事業がスタートしてしまう状況。

 これがまた奇跡の一つなのですが、そこで登場するのが、MITの事務局長を担う冨永健さん。冨永さんは、国の役人として経済企画庁、内閣府、内閣官房、復興庁を経て2012年4月国土交通省離島振興課に出向したのをきっかけに、「日本の島」に傾倒していました。そのような中で、対馬に出会い、都会の人を離島に移住させようとしていたら自分が移住したくなり、2013年6月に退職して対馬に移住し、MITの事務局長に着任。ミイラ取りがミイラになるとはこのことですね。良い意味でとても変わった人がMITの影の立役者です。冨永さんが、客観的・現実的・常識的な視点からMITの事業を見ており、川口さんや私が新規事業や危ない橋を渡ろうとすると助言をくださり、冷静に考える機会を作ってくれます。イケイケどんどんの組織の中で、ストッパーがいることはとても大事なことです。

 また域学連携事業の業務を遂行するには、大学の状況に精通し、学生の現地指導もできて、なおかつ対馬で暮らしている博士号を持つような人材(域学連携コーディネーター)が必要でした。そこで、川口さんの友人で、東京で暗黒時代を送っていた私に声をかけてくれたというのが経緯です(私目線の対馬への移住は別のnote記事でご覧いただけます)。今思うと、博士号を持ち、多少コンサル経験のある私以外ではこの大役は務まらなかったのではと思えるくらい、なかなか大変な業務でした。担当業務をこなすだけでなく、田舎での新生活&起業した組織をゼロから作っていくところからですからね。それを20万円/月(ボーナスなし、残業手当なし、最低限の福利厚生、1年で解雇される可能性あり、という雇用条件)で受ける奇特な人材は超レアだと思います。かといって、立ち上げたばかりの法人で、待遇を良くすることも難しい。

規則の問題

 そもそも、なんの実績もなく、海の物とも山の物ともつかない怪しいベンチャー企業。当時はまだ「持続可能性」が世の中で主流化されていなかった時代に、「サステナビリティ」「バイオ・ダイバーシティ」など、意味がわからない横文字を並べる高学歴な移住者集団。

 対馬市役所も、地域おこし協力隊が立ち上げた会社とはいえ、1000万円を越える大型の委託業務を随意契約で任せるのはリスクが多いこと。旧態然の市議会ではなおさら槍玉に上がる案件です。慣例では、公募して、プロポーザルで競争入札のプロセス(公募から業者決定まで約3ヶ月)を踏みます。これが例外的に一点突破できたのは、規則に囚われない対馬前財部市長の政治力・采配に尽きます。もちろん、事業実施には、博士人財レベルの人材配置や対馬在住の法人、事業開始2ヶ月後の8月から短期研修を実施できるスピード感が必要であり、それらの条件に対応できる法人はMITしかいなかった。随意契約を交わす真っ当な理由はあったのですが、それ以外のリスクが大きな賭けだったと思います。

 いずれにしても、財部前市長が、対馬に新たな風を!と、積極的に取り入れたのが地域おこし協力隊制度であり、MITなどのベンチャー企業の育成です。そのおかげで今では、この10年間で移住者が対馬で起業した団体はMIT含め、12団体はあります。

初めてのMITの仕事

 ということで、MITの最初の仕事は、対馬市から受託した域学連携による地域づくり推進の中間支援(コーディネート)業務でした。

 改めて、域学連携とは、地域と大学が連携して、地域づくりや実践教育の場を提供する事業です。人口減少し、過疎高齢化している集落は「限界集落」と言われ、存在そのものが危ぶまれていますが、古くから、豊かな自然の恵みを生かして営まれてきた暮らしの知恵や伝統・文化、歴史がそこに暮らす方々に継承されています。そのような地域の方々と交流する機会は、都会の大学生や大学教員にとってはとても貴重であり、卒業研究等のフィールドとしての学術的な意義だけでなく、地域づくりの方法や教養を身につける実践教育の場としても価値があります。一方で、地域には若い人がいないため、活気がなくなり、地域住民で協力してやってきた農業や祭り等も継続できなくなっています。もし可能ならば、対馬出身ではなくとも、若い人に移住・定住してもらい、集落の後継ぎになってほしいと願っています。

 大学側と地域側のニーズをうまくマッチングさせて、大学生を地域で長期(と言っても1週間〜3ヶ月)インターンとして受け入れるために、MITはコーディネーターとして教育プログラムの企画・提供、学生の滞在拠点の提供、受入時の指導や世話(食事や移動も含め)、地域の関係者や大学教員との調整等、多岐にわたる支援を行いました。大学側からすると、学生指導が可能な博士号を有する地域在住の人材が2-3名もいる組織が対馬側の受け皿にあることも、対馬をフィールドに学生を送り出す理由になります。夏場には、30人程度の大学生らが前述の通り、志多留という集落の民泊に5日間程滞在する島おこし実践塾という短期研修プログラムを企画し、開催しました。

島おこし実践塾の集合写真

 塾では、専門家や実践者からの講義(座学)に加えて、農業や古民家再生の体験をしたり、海ごみの回収や田んぼの生き物調査をしたり、地域住民へのヒアリングをした上で、集落の維持・再生に向けた解決策をグループで考えて、最終日に地域住民や行政の皆さんに企画提案する濃いプログラムです。今は、看板を変えて、「SDGs実践塾」となって、継続的に対馬市が別の法人に委託をして実施しています(メイン講師は川口さん)。

耕作放棄地の開墾体験(というか単純労働)

 2013年からスタートした域学連携事業により、対馬には、3年間で累計1000人以上、少なくとも65の大学(北は北海道大学から南は琉球大学まで)、分野は文学部から医学部まで、多大学・多分野・多地域の学生が来島しました。大学生にあたる年代の若者がほとんどいない島にとっては大きなインパクトを与える事業だったと思います。毎年、参加した若者たちは、古くから継承されてきた自然の中での地域の営みを自分の五感で体験し、自然の豊かさや地域の人々の優しさや生きる力の強さに触れ、感動して、都会へと帰っていきます。その後、インターンや実践塾を経て、卒論・修論・ボランティア等を目的に再訪する方も多くいましたし、地域おこし協力隊や対馬市職員として対馬に移住する若者もいます。MITもこの事業を受けたことにより、法人としての体力づくりや組織づくりを進めることができました。

インターン生の受入風景。夏休みは毎日が合宿…

MITの初期の拠点-志多留-

 川口さんは、対馬市島おこし協働隊の生物多様性保全担当として活動をする中で、志多留という集落に惚れ込んで、地区の区長さんに頼み込んで空き家を貸してもらい、住み込み、その集落をモデルに地域づくり活動を行おうとしていました。MITの事務所(当時)も再生させた古民家です。

 志多留は、森里海に囲まれた豊かな自然の恵みを上手に使って、伝統的な文化や暮らしを今も続ける集落です。季節に応じて、山で山菜を採り、海では海藻や魚介類を獲る。雨水が森林で浄化・涵養されて溜まった水を井戸から汲み上げて飲む。里山から切ってきた材を使って家を立て、牛や馬を飼って農業を行い、里山では斜面で段々畑を作り、焼畑(対馬では木庭作)を行う。山に囲まれた平地には水田が広がり、米づくりを行う。まさに、自然の中で地域コミュニティの中で営む、自給自足の暮らし。急速に近代化する日本の中で、辺境の地対馬では、その暮らしが20年前までは普通にされてきていました。日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した民俗学者の宮本常一の本「忘れられた日本人」にも記述がある地域です。

 さらに言うと、志多留は、いわゆる中山間地域の典型であり、耕地面積も少ないため、近代の土地改良もなされていないため、海から川、ため池、田んぼまで水路が繋がっています。夏には天然のウナギが田んぼの脇のため池にたくさん遡上します。そこには、天然記念物のツシマヤマネコが高密度に生息し、琉球大学の調査チームが30年以上も研究を続けている場所です。

 人も含め、生き物が生きていくために最も重要なのは水です。水が枯れない場所として志多留は、弥生時代から稲作をしていた記録があり、ツシマヤマネコと長年に渡り共生してきた集落と言えます。

 川口さんは、この集落に惚れ込み、この場所を一生かけて、持続可能な地域社会のモデルにしようと考えました。まずは、高齢化により耕作放棄された農地の再生や住まなくなった古民家の再生を進めていく。当初は、川口さんが地元の方々から農法を教わりながら農地を開墾し、米づくりを始めました。しかし、自分一人で開墾できた田んぼの面積はすずめの涙ほど。でも、若者がいない集落で人手を確保することも難しい。ならば、教育コンテンツとして、農業や古民家再生、生物多様性、集落でのコミュニティ形成・伝統文化の継承などのリアルな教材がたくさんある志多留をフィールドにすればいいのでは。島外の大学生を呼び込み、短期滞在でも担い手になって力を貸してもらおうと考えました。

川口さんの活動を紹介するポスター(吉野由起子作成)

 地域にとっても若い人がやってきて、活力や元気、労力をもらえるし、学生にとっては日本の地域課題が凝縮された集落で実践的な学びを体感することができる。そう考えた川口さんが、対馬市の職員さんたちからの協力を得て、古民家再生塾(毎月専門家を読んでパーマカルチャー的な視点で古民家を再生するプログラム)や農地再生の活動を始めていました。そのタイミングで、対馬市の域学連携事業がスタートしたのです。

地域づくり団体を生み育てる秘訣

 長くなってしまいましたが、地域づくり団体MITが生まれ、育ってきた経緯を綴ってみると、偶然の積み重ねによる奇跡的な動きがあったように感じます。しかし、それらを丁寧に分解してみると、2つ重要なポイントがあることに気づきました。

 1つは、ビジョン・ミッション・バリューを明確に打ち出して実行しようと動き出しているリーダーに人やお金が集まるということ。地に足のついた現場での地域づくりの中で、真の持続可能性を追求すること。川口さんの想いに共感し、惹きつけられて対馬に移住した冨永さんや私。さらにいえば、川口さんの先見性や事業企画力、実行力によって行政の大型の事業(域学連携事業)を対馬に呼び込めたのだと思いますし、そこに期待して対馬市長が思い切った政治力を発揮されたのだと思います。市役所の域学連携事業の担当者の皆さんもとても優秀で事業があれよあれよとうまく展開していきました。良縁の連鎖は、奇跡的にも見えますが、たった一人の想い・信念が人に共感を与え、広がっていく物語は、どんな成功事例でも共通しているものなのではと思います。

 2つ目は、公共性の高い事業を担う地域団体は、行政からの委託業務で育てていくことの重要性を改めて感じます。MITは、対馬市に育ててもらったといっても過言ではありません。域学連携事業はMITに5年間委託業務を与えていただきました。この業務によって、優秀な人材を確保し、新しい事業を作り出していくための体力や猶予を得ることができたと思っています。対馬市からの委託業務以外にも、国や県、他の自治体の委託業務や自主事業として物販やデザイン、コーディネート事業などにも挑戦することができました。

 行政の立場からすれば、一つの団体に仕事を与え続けることは、公益性の点から難しい面もありますが、タダでさえ人材が不足している地域においては、そういった行政の仕事を外部で担える地域に土着した組織は貴重であり、行政のパフォーマンスを高める上でも必要な存在です。もちろん、そういった組織がいろんな分野で生まれ、育っていくことが理想的ですし、実際に対馬ではMITが生まれて以降、多くのベンチャー起業が生まれていきました。MITはそういった行政からの仕事を受ける風土を対馬に作った立役者・先駆的モデルになっているのではと思います。



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