見出し画像

対馬ぐらし① 東京から対馬に移住したきっかけ

(吉野)「久しぶりー2013年6月、対馬に移住しましたー。」
(友人)…!? 対馬??
(吉野)「最寄りのコンビニが釜山にある島だよ。」
(友人)何で??
(吉野) 「友人が仕事で呼んでくれて。島に可能性を感じるから…」

12年前に友人とやりとりした会話です(正確ではないですが)。
当時は、地域おこし協力隊制度もできた直後くらいで、地方創生や地域への移住は世間ではあまり大きく取り上げられず、進学や就職(職場の異動・転勤含め)以外で、東京から地方(故郷ではない場所)に引っ越すのは比較的珍しいことでした。

古くから私を知る人に対馬移住を伝えると、「吉野らしく、また思い切ったことをしたな」とか、「あれ、シャチじゃなかった?(笑)」、「お前はいつも良い意味で予想を超えてくるよな」と友人や先輩、恩師に呆れられました。

対馬に移住すると決めてから、会社を退職し、移住するまで1ヶ月もかけなかったと思います。今思うと前職の社長さんやマネージャーさんには突然の辞職願いで申し訳なかったです。2年間も手塩にかけて育てた人材があっさり辞めるというのは経営者としてはかなりの損失ですし、今ならそれがどれだけ迷惑なのかがわかります。しかし、自分の人生は一度きり。思い立ったら吉日。損得勘定を抜きに、直感を信じて、兎にも角にも行動するのが吉野 元でした。

振り返ると、そうやって、人生のターニングポイントであっさりと決断し、実行してきた気がします。もちろん、東京にいた3年間、このままでいいのかと頻繁に自問自答を繰り返す日々で、心身ともに病み気味だった苦しい時期が続く中、チャンスが舞い込んできたから決断したということなのですが。

「なぜ対馬に移住(定住)したのですか?」とよく色んな方から聞かれますが、一言で答えるならば、魅力的な仕事と仲間の存在です。

今回は、対馬に移住、その後定住した私の経験談を数回に分けてお話しします。対馬などの地方の地域への移住・定住に興味のある方や、対馬の魅力を実感しにくい(当たり前すぎて魅力を魅力と感じにくい?)対馬市民の方々に読んでもらえたら嬉しいです。


きっかけをくれた友人

きっかけをくれたのは、東北大学・大学院時代に同じ釜の飯を食べた研究室の同僚である川口幹子さん(旧姓木村)です。一言で表現すると、誰もが認めるスーパーウーマンです。

対馬へのきっかけをくれた友人

川口さんは、当時、北海道大学でアイナメの進化生態学の研究をしていて、私の所属する河田雅圭先生の研究室に遺伝子実験をしに数ヶ月間滞在していました。20年前ですが、初めて廊下であった時のことは今でも覚えていて、アイナメみたいな顔(顔のバランスからしても、目がでかい)で元気に挨拶してくれました。そして青森弁で強烈に訛っていた(今でも笑)!

川口さんは、人生がネタのような方で、ここでは書くのは控えますが、もう本当に面白い。数々の伝説を生み出しています。自叙伝、是非書いて欲しいですね。ドラマの主人公にもなれるくらいのネタの豊富さとキャラの濃さで、周囲をいつも驚かせたり、笑わせたり。ビジョンも明確にあって、博士らしく考えも論理的で、バイタリティの塊であり、常に動き続けているイメージで、周りに大きな影響を与えて続けている方です。私も影響を受けた一人ということになります。

北海道大学で進化生態学で博士号を取得後、川口さんは、東北大学でポストドクターを経て、対馬の地域おこし協力隊(対馬では島おこし協働隊という)の生物多様性保全担当として、2011年に対馬に移住しました。その2年後、任期中の2013年3月に協働隊の仲間達と一般社団法人MITを立ち上げました。MITは、地域資源をみつけ(M)、いかし(I)、つなぐ(T)をミッションに、対馬を拠点に持続可能な地域社会づくりを行うベンチャー企業です。MITの事業や立ち上げのエピーソード等はまた改めて別の記事でご紹介していますので、今回は割愛します。

2013年当時、私は東京にいて、心も体もボロボロ状態にありまして、会社をやめて、地方に移住したいと考えていました。そのような中で、川口さんに再会し、対馬で生き生きと活躍されている様子を聞き、素直に羨ましくなり、対馬に興味を持ちました。実は対馬は、琉球大学の学生時代に所属していた伊澤雅子先生の研究室がツシマヤマネコの研究をしており、昔から存在自体は知っていました。当時、研究室の先輩や同僚らが、対馬の志多留・田ノ浜地区のヤマネコの調査をしているのを横目で見ていました。私は大学生時代に対馬に行ったことはなかったのですが、まさか大学を卒業して10年後に自分が対馬に移住することになるとは、しかも志多留に住むとは…当時夢にも思いませんでした。まさに、対馬とは「ご縁」があったのだと思います。

移住先の決め手は働き口と仲間

移住先に考えていたのは、北海道知床半島か長崎県対馬かでした。世界自然遺産に登録されている知床には、調査により春から夏にかけてシャチの個体群が出現することがわかり始めてきた時期でした。少年時代からシャチに夢中だった自分としては、いよいよシャチがいる地域に住む時が来たのかもと思いました。ただ、知床に移住したとしても、これまでのキャリアを生かした専門的な仕事に就ける確証はなく、身よりも頼る人もいなかったので、一歩踏み出せずにいました。一方で、対馬は、川口さんが新しいベンチャー企業を立ち上げ、常勤雇用で少なくとも1年間は雇えるという条件でしたし、MITの業務内容が「対馬をモデルに持続可能な地域社会づくりを実装すること」に魅力を感じました。そして、何よりも、旧友が活躍している対馬。仲間がいる安心感が決め手になり、まずは対馬にお世話になろうと決意したのでした。

移住する前に、2回対馬に旅行に行きました。初めて対馬に行った時には、日本最強の城に選ばれた金田城跡への登山やシーカヤックに連れて行ってもらったのですが、どこかで手の甲に小さな傷を負い、その後急に腫れ上がり、悪寒がして、震えが止まらなくなりました。その後東京に戻り、病院に行くと、手の甲から膿を出す切開手術をするなど、全治1週間の苦行を経験しました。多忙で心身ともに弱っていた私は、免疫不全になっていて、そこに対馬で何かしらのばい菌に感染して発症したのだと思います。

感染してパンパンに腫れた手の甲(手術前)

2回目に対馬に行った時も、福岡-対馬の航空便が天候不良か整備不良かで欠航したり、道中を共にするはずだった方に不審者扱いされたり(笑)、戻ってからインフルエンザにかかったりと不運が続きました。霊的なものを感じない私ですら、この時はさすがに、対馬の「誰か(得体の知れないもの)」に「気軽にくるな!」と怒られている気がしてなりませんでした。その後は、心を改め、対馬に絶対に行きたい!と強く念じました。

いざ、対馬へGO!

その後、対馬への移住を決めたのですが、今でこそ、離島引っ越し便アイランデックスさんが事業を展開されていますが、当時は対馬への引っ越しは取り扱う業者も少なく、高額でした(40万円〜60万円くらいだった気がします)。対馬では車が必須だということで、中古車の軽ワンボックスカーを静岡県の中古車会社で購入して、そこにありったけの荷物を積み込み、東京から北九州からの対馬まで、フェリーを2回乗り継いで渡ったのでした。車に詰め込んで運ぶことで、経費は抑えられ、フェリー代が合計8万円+ガソリン代くらいだったと思います。入らなかった荷物は単身引越しパック1つ分を10万円くらいで送りました。

北九州市から博多までの道中

対馬1年目は、上県町志多留という小さな集落に一軒家を借りて住みました。高齢者の住民が半分を越える、いわゆる「限界集落」です。お借りしたのは、空き家になってから10年以上の平屋ですが、部屋数が5つ、駐車場付きです。家賃は何と1万円/月です!なぜ志多留なのかは、また別の記事でご紹介します。

志多留集落
志多留の丘から望む海

移住当初は居住空間を整えるのに精一杯でした。ありとあらゆるものがカビや埃まみれの状態。人が住まないと家は直ぐに悪くなります(家もいきていますね)。トイレは汲み取り式のいわゆるボットン便所です(が、トイレの窓からは海が目の前に広がるオーシャンビュー)。生活排水は、垂れ流しで海へ(2019年の対馬の汚水処理人口普及率は35.9%)。和室の畳はどこもふにゃふにゃ。畳の間から力強く笹が生えていたり、台所のシンクにはカニやフナムシがいたり、玄関先にはヤモリの卵があったり、なかなかワイルドなところに来たもんだと腹を括りました。

借りた一軒家の和室で力強く伸びる笹
ヤモリの卵

しかし人間は慣れるいきものですね。3ヶ月もすれば、それが当たり前のようになり、カニが居ようが、ゴキブリが居ようが、ムカデが居ようが気にしなくなりました(もちろん外に移動しますが)。

移住した年は、1年で対馬を離れるかもしれないと思いながら、いわゆる「田舎ぐらし」を堪能しました。仕事を定時で終えると、夕まづめに波止場からアジやカサゴ、イカを釣り、自分で捌いて、命をいただく。知り合いの漁師さんからは、釣った魚をお裾分けしていただく。近所のおばあちゃんからは、自家製の野菜をたんまりお裾分けしていただく。。。もらってばかりの対馬ぐらし。仕事のペースも都会で働くよりも圧倒的に緩やかになり、心身ともに回復していったのでした。

そこから早くも12年目の夏を迎えています。相変わらず対馬に居続けているのはなぜか?

次回は、対馬に「定住」した理由について、対馬のくらしや人、仕事、自然の魅力をご紹介しながら熱く語りたいとも思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?