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僕らはみんな可哀想

アニメの「フランダースの犬」とか、絵本の「かわいそうなぞう」とか、可哀想の代表格は幾多あるが、近年は一味ちがった用途で使われている気がする。

かつて、可哀想な人という言葉には、本来はもっと幸福な境遇でもおかしくないのに運命の悪戯でたまたま不幸になった人、というニュアンスがあったと思う。

でも、今はどうだろう。
なんか違う気がする。例えばこんな感じ。


「シロさん、また職質受けてましたよ」

「え? また~? これで何回目よ」

「駅前のエスカレーターの下でぼーっとしてたらしいです」

「え? それだけで職質?」

「荒縄で全身を縛った上に鼻息を荒くしてましたからね」

「……可哀想な人だよな」


うん。たとえが適切かはわからないけど、可哀想の中に「処置なし」とか、「そういう個性や感性をもって生まれてきて可哀想」とか、そういうニュアンスを感じる。

「不幸だから可哀想」と少し違う。
そういう風な個性をもっているから可哀想。集団に受け入れられない性格だから可哀想。誰かと分かち合えない価値観だから可哀想。
そんな風に聞こえる。

「僕らはみんな河合荘」(宮原るり著)という漫画がある。
青年誌のラブコメなんだけど、僕がすごいと思ったのはタイトルと舞台設定と登場人物だ。
ストーリーの骨子は、主人公の男子高校生が個性的な面々の集う「河合荘」に入居し、そこの一員である高校の先輩に一目惚れして……?、というもので、ラブコメの金字塔「めぞん一刻」を想起させるものだが、これが個性的な登場人物を一同集めても自然な舞台設定になっている。
そして、登場人物。酒乱で高飛車なOL。ドMの変態だが偶にいいことをいうニート。コミュ障でぼっちで本が友達の女子高生。モテるが裏表のギャップが激しい女子大生。普通の男子高校生(主人公)。

すごい。よくもこれほどかぶらずに可哀想なキャラクターを集めたものだ。まさにタイトル通り、ぼくらはみんなかわいそう。ぴったりだ。
コメディには「自虐」「他虐」(他人をイジる)「シュール」の3種類の見せ方がある(と思う)。初期設定の時点で「自虐」「他虐」を存分に繰り広げられるフィールドが整っている。やりたい放題だ。すごい漫画だと思う。

「可哀想」なんてものは、そこら中にある。
この漫画の登場人物は珍しい個性の人が多い気がするが、実のところ、一部分を切り取ればそういう人はその辺にたくさんいるだろう。誰もが可哀想な一面をもっている。
そう、みんなが、可哀想なんだ。自分自身が可哀想な存在なのに、可哀想じゃないフリをしていたり、誰かを可哀想だと思ったり、自分は恵まれていると感じていたり……。そういう自分自身が見えていないのも含めて可哀想だな、とか思う。

もはや、時代は大可哀想時代なのだ。
お互いを可哀想だと慰め合うのでもいいし、お互いの滑稽さを指さして笑い合うのもいいだろう。各々が好きにこの時代を楽しめばいいと思う。
自分だけが可哀想な存在だと卑屈になるのはおかしい。
みんな、可哀想なんだから。


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