見出し画像

不完全なる人類の不都合

もしかして、なんかちょっと辛いんかな、と気づいてしまうときがある。そう、それが今。

辛いことは日々あるのだろうけれど、その中で、いつのまにか辛い気持ちを知らないうちに埋め立ててしまっているときがある。それはたぶん、けっこう辛いときなんだと思う。経験上。

心当たりは無数にある。

新しい仕事がいくつか始まったことについての負担。それぞれ十分に対応可能な範囲なのだろうけれど、慣れないことには負担がつきまとう。

実体としてどうかはともかく、長期的に考えたら生活は安定していないんじゃないかという不安。今だけを見つめていれば、そんなに心配はいらないんじゃないかと思うのだけれど、先を見ればみるほど不安がよぎる。未来は不安を生むためにあるのだろう。

自身の表現欲の低下の一方で、様々な表現活動のインプットの機会が相対的に増える。その中で、どこか気持ちに煮え切らなさがある。祭りは当事者が一番楽しい。その地を訪れる旅人は、そこから得るものは意外に少ないものだ。祭りはその土地に生きる者のためにあり、その土地に生きる者によって、その土地に生きる者の糧となる。旅人にとってそれは風景でしかない。旅人はそこに生きてはいないのだ。

どうも旅人としての態度が染みついてしまっている僕は、いつもどこか煮え切らなさを抱えている気もする。それは今に始まったことではなく、幼いころから持ち続けている態度なのだと思う。

実は自分は宇宙人だと言われればすっきりするくらいには、旅人しての感覚、当事者ではない感覚がある。理解も共感もするけれども、それはどうしても他人事なのだ。

地球人のふりをすることはできても、地球人にはなれない。人と違うことを感じながらも、人に合わせることで生きている。だけれども、そこにある決定的な違い。

「特別」という優位性をはらむ言葉よりも、「特異」という疎外をはらむ言葉がしっくりくる。家族、学校、地域といった様々なコミュニティーの中で、適応はできていると思うのだけれど、決定的になくせない疎外感。

僕が音大に入りたいと思ったのは、音大であれば、仲間がいるんじゃないかと思ったからだった。音楽に対しての姿勢が一致する環境があるのかもしれないと思った。結果的に音大は諦めたものの、音楽を専門とする人に会う機会は少なくなかった。その中で、当然ながら音楽を専門とする人の中にも様々な人がいて、僕が仲間だと思える人だけではないことも知った。

それでも、時にはそう思える存在と出会ったり、関係性を育てることで、自分の環境をカスタマイズしていった。そうしたことを、教育においてもしてきた。

そして近年は、当然訪れるべきライフステージにおける関係性の断絶をくりかえすなかで、疲れ果ててしまった。その結果として、コミュニティーや仲間を求めることをやめた。というか、むしろ避けた。環境を整えるほどに生きることに余裕がなかった。それほどに追い詰められていたのかもしれない。

それでも、大なり小なり、何らかのコミュニティーの影響を受けることはある。そのコミュニティーの内部に入らずとも、その外縁にふれてしまうことがある。というか、ある人間に触れたときに、その人間が関わるコミュニティーにも触れざるをえないのは当然だ。その人の恋人、家族、友人、職場の人、他にもその人が所属意識を持つ社会やアイデンティティーに関わる構成要素にも触れざるをえない。

たぶん、そうしたものに疲弊している面があるのは確かだと思う。特に音楽の世界、教育の世界、様々な世界で、小さなコミュニティーがあって、その中で最適化された文化があって、その文化の中で生きている。僕はたぶん、その文化が嫌いなのだ。

そう、僕は文化が好きではない。文化はコミュニティーであり、個を排除する。文化はディフォルメされ、わかりやすく、簡易化される。ある文脈の中で、自分をわかりやすく整えなければならない。これがたまらなく無能で、無駄の多いことのように思えるのだ。

地球人の中で、地球人の見えている「現実」だけが見えているふりをして、自分に見えているものをなかったことにして、地球人の文化の中で、地球人に伝わる言語で表現し、生きていく。たぶん、そのあたりが負担になっているのだろう。

端的に言うとめんどうくさいのだ。コミュニケーションというものは、めんどうくさいものだ。その中で互いを折衝することによって、協力し、助け合うことができる。それが、めんどうなのだ。

自分が完全な生命体でないのがうらめしい。自分が不完全であるがゆえに、めんどうなプロセスを必要とする。自分単体で完結する存在であれば、そのような苦しみは存在しないのに。

SFであれば、人間が不完全な存在だからこそ可能性があるとする。だが、それはいささかご都合主義に聞こえる。人類に希望をもたらすための、作家たちの嘘なのではないか。理性的に眺めれば、人間は不完全な存在であり、それは欠陥であると。そして、それは苦しみであり、無意味であると。だからこそ、人類は完全に向かうのではないか。それが、SF作家が容赦なく選んだとしたら描いたであろう未来なのではないか。

そんな思いに駆られるような日々を送っている中で、どこか疲弊しているのかもしれない。

サポートしていただければ嬉しいです!