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表現を出し尽くす

 久しぶりに木琴を叩いた。実に2ヶ月ぶりである。
 僕が「即興卓上木琴奏者」と名乗っているのは、このあたりに理由がある。本当は「卓上木琴奏者」という選択肢もあるのだろうけれども、僕が木琴を叩けるのは1か月に1、2回か、下手すると数ヶ月に1回なのだ。
 だから、何か一つの曲を十分に練習して仕上げるというには、いささか時間が足りない。数年かけて仕上げることも出来るのだろうけれども、一月も経ってしまえばすっかり忘れてしまう。だから僕は、その時その時の感情を即興演奏にのせて乗せることしかできないのだ。
 しかし、それはそれでいいような気もしている。僕はその都度その都度、その時のコンディションによって、その時の感情によって、それを演奏にぶつけている。もしこれが毎日続くのだとしたら、とてもエネルギーが足りないかもしれない。とはいえ2ヶ月に一回というのはあまりにも数が少ないように思う。
 そんな中で今回は久しぶりの演奏であった。今回は特に長い演奏になった。集中力が続かなかったり、コンディションがあまり良くないと、数分間で演奏はストップしてしまうけれども、今日は10分、20分と続けることができていた。というより、時間が足りなかった。
 あまりにも伝えたいことがあったのか、それとも言葉にできないもどかしさなのかわからないけれども、僕は随分と長い時間演奏していた。
 今回は5時間にわたって場所の予約が取れたので、十分に時間はあった。それでもさすがに5時間叩き続ける即興演奏を演奏し続けるというのは、体力が追いつかなかった。だから、適宜休憩を入れながら叩くことになった。
 毎回ながらとても苦しむのが、表現の壁だ。僕はその時の表現全てをぶつけて即興演奏を行なうが、回を重ねるに従い、だんだんとマンネリ化してきてしまう。だいたい2時間ほど叩いた段階で、自分の中の言葉が出尽くしてしまったような気がする。演奏はどこか似通ったものとなり、マンネリ化してきてしまう。
 その時の思いつきで叩いているから、その時の感情がそのままだから、それほど起伏がないのかもしれないけれど、多少は次は5拍子を入れようとか、次はこの音階を使おうとか考えるところはあるけれども、考えたところでそれは付け焼き刃に過ぎず、表現としての幅は一向に広がらない。もちろん演奏する時によって、その表現は全く変わるから、最初のうちはいいのだけれども、マンネリ化した後では、頭打ちになってしまう。
 今日に至っては5時間にも上ったわけだから、後半はとても苦しかった。
 いつもは2時間くらいだから、最後の方は時間調整で1分弱のショーツ動画を撮ってお茶を濁す。1 分弱の演奏であれば、多少はバリエーションを作れるから、中はお遊びのような、変奏曲のような、テクニカルな表現でお茶を濁すことができる。
 しかし今回は、十分に時間ありすぎたから、そのお茶を濁す時間も逆になかったのだ。そのため、後半の3時間はひたすら表現と戦いであった。どんなに頑張っても新しい表現に向かわない。なんとか理性を外し、既成概念を崩し、自分の壁を乗り越えようとするけれども、なかなか新しい表現には結びつかない。それは新しいフレーズとか、リズムとか、そういうことではなくて、新しい音楽だ。
 なんやかんやあって終えてみると、結局は同じことの焼き回しだったような気もするけれども、意外とそのような演奏であっても、後から見直してみると、結構おもしろい演奏であったりもする。
 演奏する側は必死だったけれども、客観的に見てみると、なかなか面白いと思うことが多い。実際に演奏してる側がイメージしているものと、聞いている側が聞こえてくるものとは、大きく違う。本人ですら違うのだから、客観的に聞いたらもっと違うんだろう。そしてその中から、面白いとか、楽しいとか、魅力的だとか、そんな表現を何かすくい取ってもらえたらうれしいと思う。
 でも一番は、自分自身が新しい表現にぶち当たること、何とかしてその境地から抜け出すこと、そこのところを突き詰める時間にしている。たとえ数ヶ月に一回であっても、この一時があることによって僕は演奏者でいられる。表現者でいられる。
 積み重ねて毎日少しずつ形を作っていくような表現とは違うけれども、自分の表現、その境地、その壁をぶち壊す。そこに集中した演奏を、僕は試みている

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吉村ジョナサン(作家)
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