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駆逐されるオタク

 どうも胸がざわついている。今、オタク達は駆逐される運命にあるのではないのかと。
 今はアニメや漫画が全盛期の時代なのかもしれないと思わせるような社会現象が起きている。ワンピース、鬼滅の刃、エヴァンゲリオン。そのどれもが社会的に価値があるものだと受け入れられ、老若男女問わず楽しまれている。


 それはもちろんアニメや漫画のすそ野が広がっていることも関係している。多くのアニメや漫画が、子ども向けに限ったものではなく、一部の大人向けに限ったものでもなく、大衆に親しまれるようになってきている。
 果たしてこれは、良いことなのだろうか。僕にはこれが恐ろしいことのように感じられている。
 アニメや漫画の黎明期は、あくまで子ども向けのコンテンツだった。その中で、大人である自分達がいいと思うようなコンテンツを作り出そうという者たちが現れた。彼らは異端で異常だった。誰にも理解されなくても、自分がいいと思うようなものを作りだしていた。だからもちろん、経済的な成功はありえなかった。
 そんな中、彼らの作品に関心を持つ者達が現れ出した。それはごく少数だけれども、クリエイターのもたらすコンテンツに対して真剣に向き合い、ときには厳しい評価もいとわない最大の理解者だった。そんな人々は「オタク」と呼ばれた。社会の誰も価値を認めない、むしろくだらないもの、気色のわるいもの、駄作と呼ばれるようなものに対し、個人的に価値を認める人々だった。完全なマイノリティの彼らは、マイノリティであるがゆえに密かに連帯し、互いの価値観を尊重した。
 ただし、彼らの価値観はあくまで主観的なものであり、共感を必要としていなかった。安易な共感はむしろ避けるべきであった。自身の価値観に正直になることこそがオタクの尊厳であり、お世辞や迎合は侮辱に等しかった。
 自身の価値観に正直であろうとすれば、孤独は仕方がない。孤独を受け入れる代わりに、絶対的な自我と価値観の自由を手に入れることができた。それこそがオタクであることの心地よさであったし、プライドでもあった。
 誰もが駄作だという漫画を熱心に研究し考察する者がいた。誰もがクソゲーと投げ捨てたゲームをやりこむ者がいた。誰も知らないようなOVAの脚本を起こし、キャラ考察をまとめる者がいた。
 その延長戦上に二次創作を行なう者がいた。彼らの生み出す二次創作は単なる妄想ではなかった。徹底した考察の追求の果てに、いわば理論の検証として創作を行なった。
 誰に見せるでもない、自分のやりこみ要素だけのために活動していた。共感を得られることなど考えもせず、ただやらずにはいられないからやっていた。
 ところが今では「オタク」とはアニメや漫画に関心を持つ人全般のことを指し、人間の一つの分類として定着してしまった。つまり、ありふれた存在として社会に許容される存在になってしまった。その過程の中でかつての「オタク」は姿を潜め、新しい定義の「オタク」が溢れることになった。
 そのうち新しい定義の「オタク」の市場が経済効果を生むようになり、いっそう「オタク」は増えていった。そしていつのまにか、全国民のほとんどが「オタク」と言ってもいいような状況が出現してしまった。しかしこの「オタク」は「アニメや漫画というコンテンツを消費しうる存在」という意味で、かつての「オタク」とは全く違った存在だ。
 それなら、かつての「オタク」はどこへ行ったのか。彼らは完全に沈黙している。アニメや漫画が消費されるようになるのに比例して、彼らはいっそう孤独になっていった。
 「アニメや漫画というコンテンツを消費しうる存在」と「自分の主観的な価値観によって自分の価値観を追求する存在」との相性は良くない。後者は前者に配慮して自分を隠す。社会通念に従った評価や観点に則って会話する。うっかり自分の「オタク」の部分を発揮してしまうと、孤独を感じてしまう。なぜなら、言葉が通じないからだ。かつての「オタク」の言葉は一般の人には全く通じなかった。それは今でも変わらない。かつては全く接点のなかった一般人と「オタク」は、うっかり同じコンテンツを楽しんでしまう場合がある。そんなとき「オタク」は自分を偽って、共通語で話を合わせている。そうすることで、孤独を免れている。
 ただその結果として、アニメや漫画が消費されるだけの存在に成り下がってしまった。アニメや漫画は現代の「オタク」に迎合するように作られ、それが経済的にも社会的にも成功とされた。かつて勢いのあったアニメや漫画はかつての「オタク」達に愛された秘め事だった。それらが現代の「オタク」の土俵に上げられたことで、一気に大衆化してしまった。クリエイターの主観よりも、消費者のニーズが優先されることになってしまった。
 そんな中でかつての「オタク」のようなあり方はいっそう秘匿され、アニメや漫画の世界から駆逐されてしまったんじゃないかと思う。下手に表でアニメや漫画の話をしてしまうと、自分の主観や価値観が漏れ出てしまうことがある。そのときの孤独は、全く接点を持たないときよりも一層辛いものになる。
 例えば筋金入りの「ワンピースオタク」が一般人とワンピースの話をすることほど辛いものはない。適当に話を合わせながら、ときには自分の意見とずれた発言をしなければならない。これが車や料理の話であれば楽しめるのに。
 そしてこの「オタク」の駆逐は、クリエイター達にも影響を与える。真剣な「オタク」の存在は、クリエイターの成長、進化に不可欠なものだった。詳細な分析と考察は、クリエイターを理解することであり、ときには苦言を呈することにつながった。それが表立ってできなくなってしまったら、クリエイター達はどう作品を鍛え上げていけばいいのか。どのように理解者を得れば良いのか。
 大事なのは個人の突き詰めた主観なのだ。大衆の社会心理に基づいた経済効果ではない。アニメや漫画に限らず、美術も映画も音楽も演劇も文学も、あらゆる創作活動で最も価値を持つのは個人の主観なのだ。万人が認めずとも、突き詰めた一人が認めればそこに価値は生まれる。万人が認めても突き詰めた存在がなければその価値は表面的なものでしかない可能性がある。それもまた必要な観点ではあるのだけれど、どうもそこに執着しすぎているのではないか。
 つまり「オタク」を失うことは、創作の価値が見失われかねない重大な危機なのだと思う。作品に多様な観点から向き合い、考察し、時には苦言を呈せるほどの熱量を持って作品に関わってくれる利害関係の全くない第三者。その存在は多くのクリエイターに大きく影響を与える。
 どうも今のコンテンツには考察や熟慮が足りないような気がする。あまりにもわかりやすすぎる。解釈も推測もする余地がなく、はっきりとした解答が示されている。歯ごたえのある作品に頭を抱えながら向き合ってきた人間としては、どうにも拍子抜けして、気持ちわるささえ感じる。
 それも時代なのだと通り過ぎることも良いのかもしれないけれど、僕は自分の主観、自分の価値観を諦めたくない。つまらないものは、つまらない。時代に合わせられないと老害と呼ばれてしまうかもしれないけれど、創作に於いては時代以上に大事なことがたくさんあると思うのだ。作品の価値は経済効果や認知度、受賞歴、ましてやツイート数や検索履歴では決まらない。そんなものばかりを取り上げるマスメディアにはうんざりしている。作品の価値は自分が決めればいい。主観に基づいた価値観こそが、作品とクリエイターを勇気づけることにつながるはずだ。
 

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