歴史と経済72〜情報の正しさ〜
歴史教科書問題が槍玉に上がることがある。
教科書に書かれている情報は、それが絶対的な存在でないにしろ、将来にわたってその時代に生きた人々の思考の材料になる。
このため、教科書の学習内容は20〜30年後に、その教科書を活用して勉強した人々の価値観の基盤になりうるものである。
教科書を使って授業を受ける中で、知識のみならず価値観も形成されていくだろう。
ここに、大人がこうあるべきだという価値観を刷り込ませることが許されるのかという問題がある。
たとえば、神話を教えるのかどうかや日本の戦前の行為に対する記述は今でも議論が行われている。
そうは言っても、教科書にも多様性が求められる。
教科書検定を通る範囲での様々な記述がなされ、最新の研究も反映されていくのが然るべきであろう。
多面的な解釈こそが豊かな学びを保障する。
ましてや、初めて歴史を学ぶ子どもを相手に一面的なイデオロギーを与えるのはいかがなものか。
専門分野を深めた様々なエキスパートの意見を検討する権利が与えられ、その十分な選択肢のもと次世代の子どもたちが主体的に選択していく学びが望まれるだろう。
特に、この「主体的」という点が重要である。
ここで、知識は「客観的に初めから外にあるものなのかどうか」という問題に突き当たる。
知識が子どもの外にあるものだとしたら、授業者が子どもに一方的に注入すべきものだということになる。
知識の少ない子どもが一から外の世界に働きかけていくことは困難が伴う。
よって教師が講義的に子どもに教え、子どもはそれを暗記するという状況が学校現場では見られた。
しかし、注入された知識に対して主体的になれるとしたら、その動機はテストの得点につながるということくらいではないだろうか。
学びの本質として、楽しさを感じ、興味・関心のもとに追究するような学びを行うには子どもたちが問いを獲得し、仮説を立てて資料をもとに探究する学びが必要であろう。
このような学びが実践される時、授業者は子どもに教え込む存在ではなく、子どもの学びを支援するファシリテーターとしての役割を担うことになる。
言うなれば、子どもが主体的に学べるように仕組みづくりと材料提供を行い、学びの過程においても適宜フォローする。
しかし、あくまでも子どもの進みたいがままに任せる。
これは授業者にとって一歩間違えば、狙い通りに行かなくなる恐さもある。
しかし、自然界においてもこの社会においても物事がまっすぐに進むことは、ほとんどないと言える。
そもそもシナリオというものは、思い通りになどいかないものだ。
大崩れしないように入念に準備し、裏から支えていく。
そして、こうした学びの基盤となるのが教科書内容ということになる。
教科書の記述が特定のイデオロギーや価値観のみに基づいたものとなると、子どもにとって思考の材料というよりもある方向性への誘導要因になりかねない。
内容を複数の視点から検討してこそ、さまざまな解釈が生まれ、深い学びにつながる。
もちろん、教科書会社が内容選択している時点あるいは授業者が材料を選択している時点において、すでに「選別された内容」になっていることは事実である。
子どもには材料を選択してくるリテラシーもノウハウも未成熟である。
むしろ、これからその方法論を身につける段階にいる。
この内容選択と理論構築に緊張感が保たれ、多面的にアプローチできる特性がなければ、今の世代が後世に託す学びとしては不十分なものと言わざるを得ないのではないか。
次世代に伝える教育内容には慎重さが持たれて然るべきものであって、一面的な内容の安易な選定は偏ったアプローチを招来することになる。
内容選択をするある種の怖さを感じているかどうか。
そして、子どもの主体性に委ねる勇気を持っているかどうか。
これこそが、未来を念頭にして内容を提供する側に求められる資質ではないだろうか。