歴史と経済59〜インクルーシブ教育〜
インクルーシブ教育の重要性が叫ばれている。
障害を持っている人の能力に応じて分離して教育を行うという形が特別支援教育が始まる以前は取り組まれていた。
しかし、現在では「合理的配慮」を行うことで、障害者も健常者も同じ場所で学ぶことを求められている。
障害者・健常者といった人間の状態を最初の時点で分けることなく、それぞれの状態に対応することで共生していくことを目指すものだ。
そのために、ハード面も整備する必要がある。
たとえば、身長ひとつとっても高い低いがある。
子供の身長を超えるような塀が視界を遮っている時、目線を上げるために台を用意する必要がある。
この時、子供・大人を含めた身長の異なる3人の人に「同じ高さ」の台を用意することが「平等」の考え方だ。
たとえば、ここでは身長の高い大人用の「低い」台を提供したとする。
これは合理的配慮と言えるだろうか。
配慮が不足していると言わざるを得ないだろう。
なぜなら、身長の高い人にとってはちょうど良い高さの台であったとしても、子供の身長では「高い」台を必要とするからである。
かといって、子供の身長に見合った「高い台」を3人に提供すれば、身長の高い人にとっては高すぎるという状況が発生する。
配慮を一律にすることで、かえってアンバランスが生じてしまう。
これは、コロナウイルス感染症関連給付金でも議論になる視点である。
背の低い人には高い台を提供し、背の高い人には低めの台を提供することで3人の目線を同じにすることが公平である。
これこそが合理的配慮の出発点となる考え方である。
しかし、合理的配慮の考え方が浸透していないと、「なぜ、あの人だけ高い台をもらっているのだ?」と不平を言う人がきっと出てくるだろう。
スーパーマーケットにある障害者用の駐車スペースに健常者が駐車することに眉を顰めることはあっても、この理屈が意外に世間には伝わっていないし、これから世間に浸透していくためには時間がかかるだろう。
やはり、障害者への教育とともに、健常者への教育もなされねばならない。
同じ場所で学ぶことができれば、お互いのことをもっと知ることができるだろう。
しかし、そこにはまだまだ乗り越えるべき課題も多くある。
経済を回し、みんなが幸福を享受できるような社会が望ましいのは確かだ。
ただし、100%を求めることも難しい。
配慮する側に過大な負担がかかっても、これは公平とは言えないのだから。
そんな支え合いというある種の緊張関係の中に、人の心の通った安心が生まれるのかもしれない。
持続可能な社会発展を考えたとき、あらゆる人が心地よく生きていけるように「配慮」を重ねることが求められる。
100%を求めるのではなく、知恵の出し合いや協力する姿勢こそが成熟した社会を創り出していく。