歴史と経済53〜口述試験〜

ヨーロッパの入学試験では口述試験がある国が多い。
これは一種の伝統であり、筆記試験が中心となる漢字文明圏とは異なる部分である。

書くテストでは、紙に書かれた答案が証拠として残り、一律の問題に対してどう答えたかということを客観的に評価しやすいというイメージがある。

それに対して、口述試験は面接官と受験生の一種の相性のようなものが存在し、しかもモノとして残らない点(レコーディングすれば別だが)において不安定要素が漂い、客観性・公平性に欠けるといった面があるのではないか。


推薦入試やAO入試などは別として、センター試験などの全国規模の統一試験では口述試験は導入されていない。
そこには、やはり規模の大きさに対して、公平な試験を実施できるかということに課題を感じている面があるからだろう。
そして、この東アジア圏においては、口述試験で正確に学力が測れるのかという点に懸念がなされていることもあるかもしれない。


しかし、口述試験はパフォーマンス力を見ることができ、受験生の分野を越えた教科横断的な知識を問い、表現させることもできる。
言うなれば、一問一答式の回答から、巧みな比喩や豊富な事例を活用した表現力・思考力に至るまで幅広く測ることができるだろう。

世の中には、筆記試験は優秀な人でもいざ話をするとよく分からない話をするという人はいる。
一方で、実際には知識をたくさん持っていなかったとしても、話をさせるとその場にいる全員が引き込まれ、知識をバランスよく活用して説得力のある論を展開する人もいる。

どちらが良い悪いというわけではないが、知識・思考力・表現力の獲得はそれぞれ違うものだということを知ることができるのではないだろうか。
知識の豊富な人が、世の中を引っ張っていけるとは限らない。
リーダーシップを取れる人は知識以外にも人格的要素、思考力などさまざまな要素が要求されるであろう。
特に、これからの時代、知識の蓄積においてはAIと争うこととなる。
それは得策とは言えないだろう。

ヨーロッパの教育は生徒に集団で集い、議論し、社会を自分たちで動かしていくことを想定する。
演説という政治行動も古代より行われてきた。
弁論が重んじられる社会において、口述試験が要求されるのは合点がいく。

日本で全国規模の試験において口述試験を行うことは、さまざまな議論が想定される。
しかし、英語教育にしても読むことはできるが、聞いて話すというところまでなかなか到達しないのはなぜだろう?
日本の入学試験で出題される英語の文章は決してレベルの低いものではないはずだ。
難しい文章を読みこなすことができるにも関わらず、いざコミュニケーションを取る段になって四苦八苦する学生・社会人の姿を見ると、知識の活用の方法を幅広く捉えていく必要性を感じざるを得ない。


口述試験のようにパフォーマンスをあげるということは、日本では日頃それほど要求されない。
しかし、中にはそれが得意な人もいるだろう。
要求されれば、応えることができる人も多くいるに違いない。
口述試験の方が高い評価を得ることができる人もいるはずだ。


一種の教養といった要素も人を説得する際に、有効なことがある。
それを自由に活用できる試験方法としては、小論文でもいいのだろうが、口述試験では表情や間合いなど説得力に寄与する他の要素が付け加わる。


相互のやりとりを通して、知性を感じる人間同士のやりとりを見出すことで、大学側の優秀な人材の獲得につながることもあるかもしれない。


口述試験という方法を考えてみるだけで、学び方やコンピテンシーの部分をもっと深めていけるだろう。

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