歴史と経済99〜シンガポール〜

シンガポールはインド洋と太平洋を結ぶ海上交通の要衝である。
これは歴史的にも重視されてきた要素である。
19世紀においては大英帝国の開発によって英領インドと日本や中国の交易の集荷基地としての役割を果たした。
経済開発が進行していくと、道路や建物などの都市建設事業のため労働者が必要となった。
特に1833年の奴隷貿易廃止によって、過剰人口に悩んでいたインド・中国から低賃金労働者として移民が入ってくるようになった。
いわゆる、苦力(クーリー)である。
やがて、金融業や商業を営む人々も出てくるようになる。
こうした人々によって海峡植民地は発展していき、1909年に英領マラヤ連邦が成立した。
大英帝国が世界中に提供した自由貿易を実現するための公共財は、シンガポールのような接続拠点を大いに発展させたと言えるだろう。


華僑は福建省や広東省出身が多く、方便の違いによって住み分けが行われ、チャイナタウンを形成していった。
勤勉で安価な労働力であったが、百万長者に成長する者もあったという。
インド人労働者は当初、教育水準の低い下級農民などを契約によって酷使される奴隷制のようなものであったが、商人も一緒に移住してきていた。
そして、印僑はカースト制度に基づく組織的ではあるが、閉鎖的でもあるコミュニティを生み出すこととなる。
特に、高利貸しや繊維商売を扱った印僑は稼いだ所得を現地に投資せず、本国送金した。
このため、原住民であるマレー人の生活習慣の改善には寄与せず、労働市場の面でも現地のマレー人と対立した。

1930年代に入り、大英帝国は植民地から本国への送金の確保を進めるため、植民地の通貨価値を高める政策を進めた。

これによって、アジア市場では対ポンド価値が「割安」な東アジアと「割高」な東南アジアとが生み出されることとなった。
ここに華僑・印僑は強く反応し、日本や中国の綿布の輸入取引を扱うことで集中豪雨的に東アジアから東南アジアに製品が輸出されていくことになる。


中国・インド系移民が生み出した通商ネットワークは、領域性を越えて様々な政治形態を繋ぐ機能を有していた。
列強諸国や植民地など、様々な社会構造の地域や国家を結びつけ、帝国主義が世界の潮流である時代にあって、アジア間貿易という地域間の交易が促進されることとなった。
ここに現代アジアの発展の萌芽を見出すことができるだろう。


バイタリティあふれる労働力や商人の存在に光を当てることで、地域の交流をクローズアップでき、それが経済の原動力となっていることを知ることができる。
そして、近代の経済史の考察が現代の大きな潮流につながることに気づくことができるのである。

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