⑻補:知的資本の生産と本の出版のたいせつさ

山本哲士氏へのインタビュー8


ーー何か補足しておくことがありますでしょうか?
山本 私が言いたいことは、出版社や編集者は、著者を尊重しろ、本を出してやるなどの傲慢な姿勢はやめろ、ちゃんと知的世界を日本に閉じずに世界視野で持って観れるよう勉強しろ、無知を前提にいい気になるな、だけです。編集者の質があまりに低い、低すぎる、だから威張る。
知的なものは、原稿や印刷物の移行だけではない、知的生産というワークなんです、この知的生産を分かっている編集者たちがいなくなってきている。
中には、世間知らずの著者もいます。そこには、丁寧に、かつ毅然と教えてやらねばならないことも出てきます。とくに、大学人はほんとに世間知らずで、威張っている人もいます。そこへ従えということではありません。無知のはびこりの共犯・共謀はやめてくれですが、著者なくして、本は作られない。
私は、幸いにも若い時に、優れた良い編集者と出版社に恵まれましたので、いろいろと教えられてきましたが、大手の出版社とはことごとく喧嘩してきたのも、本を出してやるんだという傲慢な態度への抵抗です。現在出版社と付き合う気はないのも、中間どころの出版社もそういう態度をちらつかせるからです。何にも、学問的意味も文化的な意味もわかってないで。さらに、売れる本作りをしていることは、読者をバカだと前提にして出版社=編集者はしています、私は読者をなめていませんから、難解と言われようがわかりやすくしたりしません。
本を売れなくしたのは、読者ではなく、出版社であり、取次であり、本屋という、本をビジネスにしている人たち自身です。特に2000年以降の劣化はひどい。情報技術の生活世界への浸透という外在的な要因だけの問題ではない。着物をダメにしたのは、廉価な洋服の浸透という外在要因だけでない、着物店であり問屋自体であるということと同じです。生産地を従属させ、顧客に高いものを売りつけてきたからですが、出版社は「わかりやすい、やさしい本を書け」と知的水準を引き下げれば売れるとしてきたからです。私の出版社も安くしたいが、売れないのと流通関係で半分近く持っていかれますから、儲けなしのギリギリの線で価格つけざるを得ないのですが、ジリ貧のような堂々巡りからなんとか脱したい。価格の安い本というのは、1万部以上のスケール上のことですね。スケールの違うものを同じ論理では実行できない。
吉本さんの本は何万部も読まれていたし、私の書であれ数千部は売れていた。それが、1000部以下になってきている、この劣化を作り出したのは、社会変化からではなく、本制作の当事者たちの経済文化への無知からです。知的資本もないような軽薄表層の商品生産しかできないでいる。知的ワークが大卒次元の中途半端さでなされている。
総体が、逆生産次元へと必然に構造的に入っているんですが、本質的根源、元凶は、取次の時代錯誤な仕方、独占システムです。分配システムは政治的に作用するからです。文化生産ではない、ただの管理政治の経営です。独禁法にひっかかるような仕方をしています。出版社が抵抗しないで服属してきた結果です。雑誌と書籍の混同・混在をなして、売れる儲けだけの効率性を最優先してきたツケですね。知的環境破壊者です、とくに取次は。雑誌は、欧米では小さな街角の屋台的なショップがやってますね。回転しているものの扱いで、フラッっとよって新聞・雑誌を買うことができる。本屋が、雑誌なんかやってるから、本を面倒見れなくなってる。そこに、漫画ブームです。我々の本など、相手にされなくなるのは必然ですが、本屋が本をわからなくなってます。狭いかつ低次元な大卒知性での判断しかできない。漫画家が何十年にもわたって連載している、そういう学術生産がなされていますか? 生産において完全に怠慢敗北している。
再販制度などの時代錯誤は、アマゾンによって崩された。書協も時代錯誤甚だしい。完全な自由制度にして、自由からの淘汰をなすことであって、規範経済を保守することではない。大学も出版社も本屋も、つぶれて然るべきです。潰れちゃいけない、なんてやってるから、不祥事を積み重ねていく。自らを解体する装置を自らで持っていないものは、もうダメなんですよ。
今、本は、活字ではなくコンピュータで作れますから、ある意味、簡単に安くつくれてしまう。すると、本の氾濫ですね。差別化ができずに、資本論とトットちゃんの等価が形式的に起きます。中身の価値・意味の軽薄化であって、重厚化にはならない。悪貨が良貨を駆逐する、産業的な経済法則です。
経済に文化が敗北していくことを、文化経済生産自らがやってしまっている。
中堅どこの擬似的な知的出版社は、自分たちの固有さのビジネスを自分たちで壊している。いくつかの小出版社が、必死に頑張っている。
吉本全集は、日本で、今の現状では、一番高度な内容の本作りです。
それが、第30巻みたいな、「本論」を消すなどのいい加減なことをしていてはならない。どこかで、経済優位作用が働いてしまってるからです。吉本思想も、その思想産出のアクションの意味も分かってない編者が一人で勝手にやっている。我々と会話もできない、逃げているくせに、虚勢でいばりくさってるだけでしょ。私が吉本さんと作り上げたインタビューは、ただのインタビューではない、内実の領有を明示している、それを黙って盗用しておいて、私を誹謗中傷しているなど、一体なんですかね。心的現象論の内容を何ら分かってないからできる傲慢無知。
なおさらの謙虚さと誠意を持って、本作りに、やむなく倒産しようが取り組んでいくことでしかないんですよ。初発の、S社社長の決意、ビジョンは立派でしたよ。編者がそこをくめていないんではないですか。他方、独断的な編集を容認している、間違いを修正することもできないで、アリバイ正当化へと粉飾していく。
他方、ビジネスって、変動、倒壊するのが本質であって、物質的経済の最大利益化の維持などは、ビジネスじゃないんだということ。倒産したなら、社員に迷惑がかかるから、そのために売れる本を作るんだ、などという嘘をしないことです。マネジメントもわからいで編集している編集者は、論外です。
健全な経済は作れないんだと、最初から敗北している。できないことを言えばものがわかっているかのような仕方が、大卒知性です。
そんな諸々の出版社とは付き合えないゆえ、自分で出版社を作った。そこに協力してくれた吉本さんですよ。彼は、10年に渡って、了とした自分の心的現象論を大手出版社や既存出版社に渡していなかったでしょ。文庫版はすでに構成されたものを再生産しているもので違いますが、初めの単行本としては、北洋社とうち=文化科学高等研究院出版局に渡したんです。その意味をちゃんと編者なら考えろ、です。大手も中堅どこの出版社=編集者を信用していなかったからでしょ。
著者も我々も認めてもいない青版の出鱈目なレイアウト、デザインと一緒くたにするんじゃねえぞ、トンテリア!、ですよ。比べてみろよ、その雲泥の差をですね。おかしいと思わない方がおかしい。常識的、良心的な編集者なら、仕分けたと思いますし、何より尋ねてきたでしょうね、これ一体なんだと。
実感していたからですよ、こういう類の低劣な編者しかいないことを、吉本さん本人は。しかも、印税支払いは、既存出版社よりも、うちは多くできたと思います。経済成立は成り立ったんです、著者第一主義で。
なのに低知性で、著者を冒涜するなど、論外どころか人として屑です。そんな編集者の横行に、黙っちゃいないぞ、いくところまでいくぞということですね。
しかし、それは、特定の出版社や個人を攻撃したり非難しているんじゃないんですよ、その違いさえわからなくなっている出版自体の鈍磨さは、やめてくれです。間違いを修正すれば済むことを、被害妄想になって自分たちが非難されていると批判の意味もキャッチできず、自分を守るだけの仕方は、自分で自分を崩壊させているだけです。こちらのせいではない、自分たちが招いたことも、わからなくなっている知性です。
間違っていないなら、被害妄想になる必要はないですね。
著者が決めた書物のタイトルを勝手に全集収録で無視し変えるなど、前代未聞のことである。そうするなら固有の構成を自分で作ってやれ、人がコストも時間もかけてしかも著者とともに作り上げたものを無断で盗んでおいて、どれだけ大変なことかそういうきちんとした編集ワークをしていないからわからないんです。自分のいい加減さの正当化のために、きちんと調べもしない解題で、処理されたことを蒸し返し、著者が決定した真正性に泥を塗り、著者表題を勝手に変えるなど、論外中の論外であるゆえ、謝罪し、修正し、きちんと墓前に報告しろ、ということです。
出版経営者同士で、きちんとした関係構成のための通道の仕方を教えてやって協力さえしようと提起したのに、それさえ意味がわかってない、つまり何をしでかしてしまったかの認識がまったくわかってないんだなと、やむなく承諾を保留にしましたが、ほんとに「間違いをただす」という単純な真っ当なことができなくなっている異様さは、全員に迷惑をかけていくんです。最大の物的被害を被るのは、その犯人=当事者自身とそこへの犯罪幇助なんですよ。他でも社会的現象になってますが。
N印刷所は、担当者が勝手なことをして青版を作り販売さえした。それをのちに止めたと思います。波及の広がりを抑えた。
同じようにS社も、全集担当編者が勝手なことをした。かつ付帯物を無断使用した(編集、出版、制作に関わる権利は私の出版社にあります)。だが、その派生する愚挙をいまだとめられていない。
ともに、勝手な独善的担当者が、会社を無視し、会社本体に迷惑をかけているんです。損害は会社にきます。ともに、「心的現象論」と本の題を立てています、自分はいいことをしていると思いこんで、著者が「本論」だとしていることの無視で共通しています。
出来上がったたものだけを見つけてまとめていることには、創造のプロセスの構成がわかられていない、しかもできない。結果の効果のみでしか判断しない。結果、損害回避しているようで、より大きな損害を生み出すのをわかってないですね。
問題が生まれる諸関係の土壌を七回にわたって述べてきましたが、現象だけの問題ではないことさえわからなくなっている知性ゆえ、他人を人身攻撃までするんですが、自己破滅へ向かっているだけで、それさえ他人のせいにする、社会病理の表れである、その「社会」が問題だということです。つまり、そういうように個人主体化されるものは、社会における従体化であって、そこへの認識がないとさらに下降しますよということです。自分のだらしなさを、他人のだらしなさと転じれば自分は正しいんだ、と組織幹部がしょっちゅうやってるでしょ、これが大卒知性です。退職後、町内会会長などで威張りくさってる人をよく、見かけるんではないですか、出版嘱託委託で、威張りくさってる編者って、編集ワーク失格でしかない。自己主張するなら、私が制作したものを外したものを作れ、です。
とりつくろいは、破綻します。
皆さんのような、現在世界の行き詰まりを感知されている賢い読者たちが、許さないでしょうね。でも、読者の半分は、騙しの正当化に乗っていきます、それも現実です。
しかし企業で、データ改竄とか粉飾決算とか、その場の儲け作りの誤魔化しは、必ず損害となって、より損失を出すでしょ。いかに物象化された経済であれ、真っ当でない仕方は破綻するんです。経済に対してもナメていますね。
1冊でもいい、10冊でもいい、しっかりした本作りは、今や可能です。その仕組みは、わたしは作ったし機能しています。第一は、歴史に残すことです、たとえ売れなくても。学者たちが、自分ですること、それはもう可能なんです。商品の不等価交換で、儲けを出すなんて時代はもう終わってます。知的生産においては、それはもう完全に終わっている。大学の学歴資本など、絶対価値がないだけでなく相対的価値もないですね。だから浮薄なものが大量に作られ、利益を貪っている。1000円の新書が、半分がコストでとられたとして500円売り上げになる。その1万部は500万円、10万部は5千万円ですよ。ぼろ儲けでしょ。著者印税はそのたった10%です。ひでえ商売やってる。それを年に10冊出したとして、五億円。こんなボロ商売で、知的資本の形成はなされない。それが、氾濫してます。日本の文化環境を瓦解させている商売です。うちの「知の新書」1000部行きません、これだけやさしくしても難しいと敬遠される、かなりやさしく落としているのにです。私がレイアウトして、校正もして全てをやってますから、コストがかからずできている。これを学者・研究者たちが自分でやっていけば、無能な編集者や出版社に依存する必要がなくなる。そこへ早く行くことです。でないと、変わらない。
すると資本論もちゃんと読めていない輩の新書が、売れていますが、そんなものから資本理解も経済理解も知的に成り立たない、ただのスターリニズムの感覚が蔓延していく、その全体主義的雰囲気に乗ったから売れているに過ぎないのです。知的瓦解促進の書です。私は、今、資本論を新書形態で出そうと企画構成していますが、12巻以上になりますよ。1冊が、1章です。それを1冊にまとめられるというのは、優秀なのではなく、誤魔化しの退化でしかない、ここがわからなくなっている大卒知性です。
流通取次をなくすこと。本に限らず、この流通支配が分配様式を膠着させてます。市場も経済範疇ではないですが、分配は政治統治なんです、経済じゃないのに、そこで経済しているからあらゆる「物」においておかしくなる。資本が悪だ、なんてトンチンカンなことしている知性だから、現実の構成を見れていない。自分で「資本」を疎外して悪だと実定化しているだけの話しです。
出版社と読者との直接性の販売システムになること。それは、情報システムで可能です。読者がそこへ成熟することです。amazonが無くなることですね。取次、分配の無能さに、amazonはつけ込んで帝国を作ってしまった。水声社は、amazonに出さないと頑張ってますが、良書を作れていますね。うちも、以前は出さないと突っ張ったのですが、仕組みで出さざるを得ない状態に配置されてしまいます。そこは仕方ないですが、しかし、新たな分配をなんとか作り出したいという試行錯誤を放棄はしていない。実験的段階です。
知的生産の文化経済は、商品経済=社会経済では成立しない。資本経済、場所経済にしないとたち行きません。ここは、もうはっきりしていることですから。そこと世界交通との関係を組み立てることです。大学知性、大卒知性は大学教育システムの制度経済に依拠したまんまの知性でしかないゆえ、文化生産において不能化しているんです。
私は、まだあえてここに資金投下をしていません。循環的再生産で何が課題なのかを検証しながら試作中です。儲けはないが、損もしていない。文化資本投下をなしている段階です。新書から選書、そして単行本へと戻っていきますが、協力者が徐々に増えてきてはいます。もう、大手でさえ、本を出してやるから金払え、維持費出せ、と完全に反転が始まってます。そこに騙されている著者では、もうダメです。「大学の教科書で売ってくれ」から、とうに「売る」ことの放棄は出版社で始まっていましたが、他の製造企業でさえ、売れるにはどうしたらいいか、とこちらに聞いてくる始末。経済は生産することと販売すること、のこの「販売」に、流通・分配の統治が管理的に絡んでいる間違いをどう脱出するかです。もう、いろんな試みがなされてはいますけど。
本は、人類の財産です。この紙媒体の文化資本は、消えない。ですから、きちんとやっていかねばならないのです。
知的資本の劣化は、経済、政治の劣化を招き、感情資本主義は感情専制主義に堕落します。ロシアや中国が、社会主義から市場経済へとシフトして、感情専制主義に落下していった、そこに低知性ロシア権力者たちによる戦争が仕掛けられている。アメリカ帝国主義がやってきたことの後追いですね。社会主義拡大のドミノ理論を、NATO拡大に重ねている、えせ「帝国」による侵略戦争です。独裁専制は強固であるゆえ、脆い、崩壊は時間の問題ですが。国家統制秩序は、国民の大衆基盤が50%状態で支持と拒否とに分裂するという情況構造になっていると思います。
経済は、知的でありかつエモーショナルなものなんです。労働現場でさえ、感情が揺れ動いていますでしょ。そこに、働く知性は、とても重要で、もう感情と知性が対立する構図には現実はないゆえ、知的資本の高度化が要されるし、大卒知性ではそこに対応できない。しかし、emotion論が、日本では未熟すぎる、疎外論次元で感情労働論をやってるだけですね。
私は、新曜社の堀江社長や日本エディタースクール出版部の吉田社長、によって情緒的かつ知的に教えられながら、好きな本作りをやってこれたし、学術雑誌編集もかね200冊以上の出版物を作ってきた。その質は、出版の最低限の知的良識ですよ。そこに比して、ほんとにひどい劣化がおきてます。
良き、高度な知的環境を作る。それだけが、私の意図です。しかし、水は低きにしか流れない。清流をキープするのみです。私は、研究者でありかつエディティングの編集ワークもなす、文化生産者です。
学者、研究者は、自らでマネジメントできるスキルを持たないと、こういうどうしようもない編集者が横行して、知的環境破壊=汚染を進めていくだけになる。
今の編集者の多くは、専門主義の断片でのニッチな項目を偉そうに一般化して、総体を見ることができない、大卒知性編集出版してます。我々は出直してこいと突っぱねますが、不能化した大学人が屈辱的にヘーコラと従属して成り立ってる。
体系的で、統合的な固有の思考を展開すると、それは現実を無視した独りよがりの向こうみずな曖昧なものだ、と狭い専門主義からの批判が必ず嫉妬を裏にもって出ますが、現実を細分化して限定づけている仕方の方が現実自体を見ていないでしょ。それどころか、自分自身を全く見ていない。そこさえ、大学知性は分別付けられない不能になっていますが、専門主義の思い込みで支えられているからです。
私もだんだんと口悪くなってきますので、とめておきましょう。
大卒知性からの脱皮は、自分の自分への自己技術でしか開けない。もはや、大卒知性は、社会機能しなくなっているのを自戒すべきです。ビジネスにおいても、ブルデューやフーコーの理論が欧米では活用されています。日本だけですよ、先進国の中でボケーっとして、難しいなどと言ってるのは。N社の副社長だったフランス人のPさんは、私が社会科学高等研究院の学者たちと付き合っているのに驚かれ、そこで信頼されプロジェクトが始まったんですが、誰だかどういう質であるか彼はすぐわかったのに、日本人役員・社員はボーッと何のことかという状態でした。この差は、日本経済の劣化の最大根拠です、それさえ気づかなくなっている大卒知性の経済・政治リーダーたちです。大学産物のエントロピー結果です。
ヘーゲルやカントやマルクスは、またフーコーやデリダやブルデューは、基礎であって、到達目標ではないんです。吉本言説は、地盤です。
そして、述語制言語様式に戻さない限り、知的資本形成はありえない。言語で思考するんですから。自立思想を主体論だと勘違いしているんじゃないですか。心的現象論は、心理自我の書ではないです。幻想論は、ファンタジーの書ではないんですよ。J-A.ミレールのファンタジー論と吉本幻想論を突き合わせてみればいい、全く異質ですが、我々はそこへの関係架橋をしていいかねばならない。近代エピステモロジーの枠を脱し、世界線で考えない限り、吉本言説の了解はありえないんですよ。マラルメのマの字も分かってないんじゃないですかね、この編者は。フランス語きちっとできてるんかい?!どっかの総長だった人、ひでえフーコー訳ですぜ、フランス語ができたって内実を読めてない、つまりできていない。言語の意味作用が根源的に分かってない。詩的言語の、また「哲学言語」のtransferで起きる物事への認識など不在でしょ、ほんとに知的に小賢しいだけで、何ら掴めていないままの累積市場に日本はなってしまっている。
文化そして学術研究は、いちばん大切な土台です。それを、軽んじ、また難しいなどと避けて怠けている国が、生産性が落ちていくのは当然です。講演10万円などで、企業が学者に委託してくる、冗談ではないですね、毎日、我々は学術研究を積み重ねているんです、そのつまみ食いで、経済運営などできないですよ。政府の専門委員会なども、ひどすぎる、国家政策の知的土台が粗末に作られていく蓄積からは、国は滅びます。賃労働者大学人たちの賃金的知性形成から、知的資本は形成されないのは、研究ワークできるような研究予算もない環境だからです。マネーへの認識も間違ったままになってる。中途半端な知性が、一番、始末におえないんです。
私は古いタイプの人間なんでしょうが、本質は物事において変わらないですよ。
(本人からの修正によって手直ししています:インタビュー担当者)