日本の音楽② 江戸~明治
江戸時代の日本の音楽というと主に三味線や浄瑠璃などで、雅楽や能はまだ官のものでしたがそれらが徐々に大衆芸能へ還元されて言った時代でした。
また、ヨーロッパではバッハやスカルラッティなどの音楽が隆盛の時期でした。
日本、西洋共に流れとしては宮中、宮殿で行われていた音楽はほぼ西洋、日本と同時期に官から民へという流れを辿っています。
ちなみに織田信長の時代には宣教師が来ており、すでにキリスト教で行われていたオルガン音楽などは聞かれていたそうです。
日本の音楽における特異性、というのは当道制度というものが引かれ、いわゆる琵琶法師のような方々、三味線、琵琶、筆等の音楽は盲人、目の見えない方の為の職業という位置づけだったり、また筆は武家のお嬢さんのたしなみとしても行われていました。
そして鎖国から開国へ流れ、明治時代になり当道制度が廃止され、盲人以外でも筆や琵琶、三味線を音楽を生業にしてよいと変わり、また西洋の音楽が大きく入ってくる訳ですが、西洋の音楽というのは教養として扱われておりいわゆる金持ちのマニアのような方がこぞって愛好し、、
明治時代は近代国家への発展をめざしヨーロッパの教育を取り入れていくという流れでしたが音楽は例外で文部省の音楽取調掛という部門を設置し行われたそうです。
また日本初の音楽大学である東京音楽大学の設立など、音楽取調掛、東京音楽大学という場所で行われた、文部省による教育方針が西洋音楽の隆盛と元々あった日本的な音楽におけるターニングポイントであるのではないでしょうか。
音楽取調掛は本来、西洋の音楽を輸入し、その仕組みを持って日本の音楽に取り込み国楽を創生しようという目的を掲げ作られました。
なぜここで西洋音楽への偏りが発生したのかというと、当時担当官であった伊沢修二という方が大きく関係します。
ちなみに、この当時きたドイツの方やイギリスの方はいろんな文献において、こぞって日本の音楽をなんだこの人が死ぬ前の呻き声のような不協和音は!のような事を言って批判していますし、多くの日本人もピアノの演奏をきいて失笑したりするなど少なからず相互理解とはいかなかったようです。
西洋で言われるソプラノの声を聞いた日本人の方の文献にまるで犬の遠吠えのようだ、ともあります。
東京音大では、音楽の素養があるものとして浄瑠璃の凄腕師範が西洋の音楽を学びに来たが、メロディが止まる箇所での合いの手を辞めることができなかった、など話がありいかに別物であるかはその話からも理解ができます。
こうしたことからも分かるように、音楽は誰とでも分かり合えるユニバーサルなものだ、という認識は一方では正しいのですが、他方では正しくないところがあります。
まず、全ての文化は記号であり、そのコードを持っていないものでは文化による感動の体験をすることができないという現実があります。
茶道の作法がなぜ美しいか、一番わかりやすい例ですと、フランスの現代アーティスト、マルセル・デュシャンでしょう。
噴水というただ便器を置いただけの作品がなぜ素晴らしいのかはそのコードを持っていないと理解ができないわけです。※文化とコードという考え方
そのコードを体験する経験を作り出す社会がその文化、音楽を形成しているともいえ、西洋音楽、特にいまでいうクラシックの土壌はヨーロッパの宮中や劇場であり、またキリスト教のために作られた音楽などが主になります。
日本の音楽は寺や神社で行われる仏教的なものからお座敷や能楽堂、歌舞伎座での上演が主になります。
音楽取調掛が行おうとしていたのは服装、生活、味覚も全てにおいて共通するところがない、こうしたまるっきり違うコードの文化同士を音楽においてとりこみ新しい日本の音楽を作ろうという目論見だったわけです。
次回は音楽取調掛とその中心人物の伊沢修二さんについて書くつもりです。
近藤寛峰