激動の幼少期
さてさて…
私と母が埼玉県A市に転居して、数ヶ月…
引きこもりだった母と私は、少しずつ外に出るようになった(小さい頃の写真から…)
近所には同じ歳の小さい子をもつ家族がいて、母の持ち前の明るさと楽しさで…すっかり家族ぐるみでなかよくなり(実は40年経った今でも交流がある)、なんとなく安定した生活をしていたんだと思う。
当時の写真は、どこかのリゾートに行っていたり、カートの試合だったり、ゴルフ、乗馬、車と順風満帆な父と母との、お出かけの写真があった。
また、やんちゃな私はエスカレーターで転倒したのか髪の毛を巻き込まれて頭に包帯ぐるぐるの写真もあったが、もちろん記憶にはない。
そんな幼少期の記憶など覚えていないことはよくある話。
でも覚えていることもある。
ある朝、目が覚めると家にいるはずの母がいなく、一人だった。
もちろん子供ながら怖くて大泣きした。
泣いても泣いても誰もいなくて・・・
そんな時に隣のおばさんがうちに入ってきて、泣いている私を抱えて自分の家に連れて行ってくれた。
状況は誰もわからないまま、私はずっとめそめそしていた。
しばらくすると父がやってきて「ママはもう少ししたら帰ってくるよ」と言い、私を救出してくれた隣のおばさんと話し、そのまま去ってしまった。
何日経ったのか、何時間なのか時間の感覚はわからないが、いつの間にか母が帰ってきて、また変わらない日を過ごすようになった。
私は無邪気なもので、母がその時に何があったかは知る由もなかった。
私はいくつから保育園に行ったかわからない。
ただ覚えているのが、保育園の門で母のことを追いかけて泣きじゃくって「置いてかないでー!」って言っていたことは覚えている。
それと、当時、母は原付を乗っていて、足の間に小さな私を体育坐りさせて黒いゴミ袋を被されていたこと…私はその黒いゴミ袋に小さな指で穴を開けて…外をそぉっとみていた。笑
保育園はA市の街中にある。
そんなに大きな保育園ではなかったが、いろんなお友達がいた。
私は体は小さいサイズ、何よりとんでもないほどの泣き虫だった。そのせいか、いつもちょっかい出されていて泣かされていた。
ある日、男の子2人にトイレに呼び出されパンツをおろされ、卑猥なことをさせられたりした。これはあまりにも恐怖で鮮明に覚えている。たまたま通りかかった先生に救われたが、その子たちは先生には真実は言わなかったし、私も怖くて言えなかった
今でも忘れない、嫌な思い出である。
それに、お給食が何より大嫌い。
好き嫌いの多い私はいつも居残りご飯…。
特にカレーは最悪だった、大きなにんじんがゴロゴロ入っていて、辛かった…。
保育園の楽しい思い出は、何かあったはずだけど、ひとつも記憶にはない。
その頃楽しかったことといえば、スイミング、乗馬だった。
習い事はたくさんした。多分その頃の私がしたいことではなく、母がやらせたかったようだ。
乗馬に関しては「女性初の騎手」を目指していたらしい笑
あまり記憶にないがカートもしていた。
これは後から聞いた話、母が国内ライセンスわ持っていた流れで、娘も始めたとか、でもセンスが無さすぎてやめたと。。
あとは…ピアノ。これは人生最大級に好きじゃなかった。3歳から初めて10歳までやっていたが、練習もしない私は、ただ音符の読める人になった笑
スイミングも3歳から始めた。これはよく風邪ひくから、身体を強くするためと言っていたわ、
しかし、泳ぐことは大好きでセンスがあったようで、9歳の時に関東大会まで出場したのだった。
まあ、小学校上がる前にいろんなことを経験したけど、何より落ち着きのない子どもだったから(多分ADHD)、いつも乗れるようになった自転車でフラフラしていた。
時間の読めない私はいつも母が車で迎えに来る…
母はマスタングを乗っていた。
あのエンジン音は最高に恐怖であった。
私がどこにコソッと遊びに出掛けても、絶対に車で探しに来る。
そして車のトランクに子ども自転車を押し込まれ、私を助手席に乗せ…連行される笑
手のかかる娘だったに違いない。
気付くと、父が帰ってくる。
父が帰ってくると、家の中が明るくなるわけでもなく、
いつからか、私は「イイ子」になるようになった。
父に褒められたいからだ。
しかし母と父はいつもけんかしていた。
何かと大声出して言い合いをしていた。
私は聞かないふりをして、この時ばかりに静かにお絵描きしたり、ピアノを弾いてみたりしていた。
ただ、20時になると電池が切れるように眠ってしまうのであった。
そんな幼少期の生活であった。
次回は小学生にあっがた編に続く