もうどこにもいないひと
ねむれなくて廊下に座っていた。この家しか帰る場所がなかった頃も眠れないときはたまに廊下の隅で体育座りをしていた。恐らく誰か、家族ではなく、もっととおくから来た誰かが見つけてくれるんじゃないかという期待と、まったく相反する諦めを持て余しながら。結局冷えた体で布団に戻った。意義も進展もなくただ心を苛むばかりの頭中の濁流を必死にスマホに分流させてますます眠れなくなることのほうがよほど多かったけど。その点ではいまも昔も私は変わっていなくて、このまま成長もみられず生きるのかと思うと心底うんざりする。
一定の距離を経れば過去の自分は他人になる。うんと距離を取れば過去の自分の言動にたいし、理解はできても共感はできなくなって、例えば過去の失敗をあげつらわれても平気で笑っていられるし、思い返して自己嫌悪に陥ることもなくなる。でもそれはほんの幼少期の可愛らしい言い違えや妙な行動の話で、まだ今の自分と地続きな過去の自分には苦しめられてばかりいる。
何度も省みたことだけど、ここ数年の私は自分が助かるためになりふりかまわず他人を消費しようとしていて、それが自分の望む幸福の具現化だと思い込んでいた。問題はずっと、本質的な意味を欠く人生そのものではなく、本質的な意味を欠く人生に耐えられないということだった。
一方で私は基本的に他人を信用していないので(人間はそういうものという、好悪を超えた諦めに近い気がする)、一瞬先に変わらず現前しているかさえ不確定な他人の好意に頼らざるを得ない自分が嫌で嫌で仕方なかった。できるなら一人で幸せになりたかった。というか、一人ですら幸せになれない人間が他人と幸せになろうとすべきではなかった。自分は孤独に耐えられるほど強くもなく、他人を信頼しきれるほど美しくもなかった。安心を与えて死ぬまで騙してほしかった。盲目の信者になりたかった。純粋に愚かになりたかった。そういった言明が、周囲の他者にとってどういった響きを持ち得たか。もっと私は想像を巡らせるべきだった。
どうして他人を信用しきれないのだろうかと考える。信用ということばじたいが、自分の想定する都合のいい人物像に生身の他者を押し込めるような暴力性を伴っていて嫌だけど。こじつけを弄して何かのせいにすることはいくらでもできる。たとえば経験からいくらでも引き出せる。それに安心で死ぬまで騙してくれる見込みのある他者が欲しいという目的を規準に据えて現在の人間関係を測れば、それはもうとんでもない行き詰まりに近い気さえするから、そういった経験が現在進行形で声高に勝利を宣言しているともいえる。ついでに言えば、そういう他者はいない、という言語表現がそういう他者を獲得(いやな響き)する勝算を低めているだろうし。ただ楽をするために正直であろうとして、口を開けば露悪的な表現ばかりで、その繰り返しでいくつもの好意を踏み躙ってきた。
何度思い返しても、私が信じる、と言ったとき、それは、理想を他者に押しつけるということだった。その滑稽さにも徐々に気づいた。この世に本質的な善悪の基準など存在しないから、いくら自分を傷つけた他者の言動も怒れなかった。いまも怒れない。勝手にもった理想が失われて傷ついているだけだから。昔から私は考えすぎるから。思い返せばあれは私が我慢すれば済むことだったなあ、そういう些細なことで被害者ぶってしまったことが何度もあるから。怒ってはいない。怒るべきだったとも言い切れない。それを延々と引きずることも、こうして書き留めることもおかしいのだろう。イタいとかそういうやつなのだろう。でも私はかなしいのだ。
かなしい。自分がうまくできなかったこともかなしい。いくら自分が惨めでも素直に嫌なことは嫌と言えばよかった。いつも取り返しのつかなくなりかけたときに自暴自棄な行動しかとれなくて、それで醜い印象を重ねたのだろう。もっと俯瞰できればよかった。もっとうまく橋渡しだってできたと思う。私だって鼻につく言動が疎まれていただろうとも思う。自分の行動がすべて冷静で適切なものだったなど到底思えない。ぜんぶ自己満足でしかないということはわかっているけど。
長らく身を置いてきた環境のちょっとした歪みから自分が目を背けてきたということにも最近気づいた。というか、自分は比較的不自由なく幸福で、だから不平を抱いてはいけないという思い込みを周囲の人たちが少しずつ解いてくれるようになった。それだけ周囲の人たちも変わって来ていて、だから、私がいくら過去を清算したいと思ってもその気持ちをぶつけられる他者はもういない。
誰も同じように風化していくのかもしれない。
ただ、あなたがひとりで毒を吐くようになる前に喧嘩ができるようになればよかった。あなたへの怯えを拭えなくなる前に言葉を交わせばよかった。あなたが出ていく前に、保身から出たひどい言葉を謝ればよかった。笑顔で取り繕う以外の表情を、あなたの前で作れるようになればよかった。あなたに嫌われているという思い込みがどこかから芽生える前にもっと子どもっぽく振る舞えばよかった。
すべてやり直したいと心の底から願えるほど執着もしていなければ、そんな権利もないけど。
その時々でわたしたちは少なからず互いを消費していたし、これからもそうしていくのだろう。