夜食のパンが思ったより油っぽくて悲しかった
自分が人との関わりに飢えるような人間だと思っていなかった。失望した。この側面は精神衛生の保持を自己完結させたいというわりと畢竟の願いと矛盾しているので、加えて人間関係を保つ努力ができないという自覚もあるので、なんというかここしばらくずっと戸惑っている。戸惑いを持て余して飢餓感に目を瞑っていたら周囲のすべてが敵のように思える時間もさいきんは増えてきた。自分にだれかと敵対するような価値のないことはもちろん知っている。
周囲の人間関係はすべて裏で繋がっており、自分をいつか徹底的に陥れぐちゃぐちゃの肉塊にするために有機的に動いているのではないかとか、そういう疑義を定期的に抱く。人格などあやふやなものだしいま誰かが私を本当に(本当にとはなんだ)好いて(好くとはなんだろう)いてくれるとして、それは一瞬あとにその人が私を憎むことに対するなんの抑止や自家撞着の材料にもならないし、つまりあらゆる他者に憎まれるのでは?捨てられるのでは?といった疑義も「まあ完全に否定はできないよね」と言ってしまえる類の可能性ではあるのだ。なんだってそうだけれど素面の自覚があるいまのような状態ですらこうした馬鹿馬鹿しい妄想を否定することはできない。反本質主義を学問の手段として内面化したらとてつもなく甚大な副作用を負った。自分をこの世に産み出した責のある母親の愛情すら心から信じられたことがない。申し訳無く感じはするが、そのせいで回復不可能な痛みを内奥に抱いたまま長じてしまった(のかもしれない)自己への憐憫のほうが前景化する。他人を慮る余裕はない。そのくせ自分の価値を生み出すために他人に優しいふりだけはし続けてきた。
というかあらゆるものに本質がないのなら信じるもクソもないんだろうな。信じるという単語をひらくとするなら裏切られてもいいっていう意味合いが適してるんだろうか。
不透明な先行きへの不安を人恋しさに転嫁しているだけかもしれない。あるいはちょっと前に人間関係がかなり嫌になり(もはや自分のレジリエンスの低さを責めるしかないのだけれど)そこで負った人間不信のマイナスをプラスに転じてくれるような何かを求めているのかもしれない。しかし当然ながら世界は因果応報の採算がきちんととれるようにとか、私が納得いくようにとか、そういう価値基準でつくられてはいない。それに私が愚かにも期待してしまっていたよりも遥かに、他人は他人の痛みに無関心なので(なので近頃は他人の痛みを看過できない人たちへの感動と傾倒が抑えられない)私の悲しみを埋め合わせようとするのは基本的には私しかいないと考えておいたほうがいいんだろう。
自分がいちばん頼りないのに!?
それでもいまの大切な人間関係が自ずと続いていかないだろうかとか、そういったたぐいの妄想をせずにはいられない。だったら自分から働きかけ続けるしかないとは思うけど、基本的にSNSで人類とか世界とかいう大きな、焦点をぼかせるような目的語に仮託して喚き散らすみたいなアプローチしかできなくてそれが、心底、キモい。し、それではいずれ限界が来ることもわかっている。
でも人を大事に思うのと同時に人と話すのって疲れるしうまくできないし人間って嫌い。同期の研究対象に引っ掛けたギャグがツイッターに流れてきたからDMにツイートのリンクを張ったけど送信ボタンが押せなかった。大学を辞めた友だちが好きだと言っていた曲を聴くたびに彼女のことを思い出すけれど私の中の彼女の姿はたぶんこれからも更新されない。いま、というかここ数年いちばん大切に思っている人が真っ先に頼る人間は私ではないし心理的な距離の最も近い人間はたぶん私ではない。(頼りない私が悪いのは言うまでもないが)その事実を間断なく突きつけられる拷問のような日々は依然続いており、双方にとってこの関係性に価値があるのかもやはりわからないまま表層的な会話すらできずにいる。自分が誰かに接触することを加害行為だと認識する歪みはいまだ治るきざしが無くて、誰かにたいして一方的に思いを馳せてでもこれ以上長く深く関われないと勝手に傷つく。そういうことばっかりしてる。だからこの文章を読んでるあなたが私の知人友人なら、たぶんあなたが思ってる何倍も私があなたのことを考えているという可能性は十分にあります。すみません陰湿で。
あなたが大変なときそばにいなかった人を大事にする必要はない、みたいなツイートがたまに目につく。目につくたび、大変なときそばにいられなかったら大事にしてもらえないんだろうか?ってすごく怖くなる。たぶんツイートの趣旨は他人から利益だけを得ようとする人は避けなさいみたいなニュアンスなんだろうけど、思考の歪みの自覚が矯正とイコールだったらたぶん誰も苦労はしていない。普段から日常生活の様相を伺えるような関係性が築けてないんだから大変なときにそれと気づくなんて無理に決まってるじゃないか。学校でも研究室でも部活でも通話サーバーでも私が一方的に大切に思っている人たちと、日常的に接する場面のあるすべての人間が憎い。心底。
ここまで考えたところで表層化したエゴに気づき自己嫌悪が波になってやってくる。誰かを心配する動機が大事な人という位置を獲得するためだとしたらなんと自分勝手ではないか。醜い。あらゆる感情は言ってしまえばエゴだしその心配が相手にとってうまく機能すればそれでいいのかもしれない、が、そんな瞬間なんか人情の機微のわからない私には一生訪れないのだろう。
自分の吐き出す言葉のすべてが美しくない。こんなただ世俗的な文章なんか書きたくない。あとから読んで内実を再構成できるとも思わないし、これを公開したところで人間関係の何かが改善するわけでもないのだろうし。
いよいよもってすごく嫌な気持ちになってきた。
夜食に食べたパンが思ったより油でぎとぎとしていて胸が悪くなったから言葉のみにくさとかはそのせいってことにしてやめにしよう。こういうふうに下手な詩みたいなおまじないのごまかしをすら、日常的に使うようになってしまった。
思考は堂々巡りをしている。ということは近々劇的になにかが変わることはたぶんないのだろうから、願いごとは、明日起きたらいまはまあこれでいいかでやり過ごせるくらいの精神状態だといいな、くらいにしておこう。
抱きしめて眠りにつける何かも誰かもいません。昨晩もでした。おやすみなさい。