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私は読書を薦めない

「子どもに読書をさせましょう」
「子どもを本好きにするのは、親の役目です」

こんな言葉を聞くたびに、私は「す、すみません!!!!」と心の中で全力の土下座をしています。なぜなら、うちの息子は本をまったく読まないからです。

正確にいうと「読めない」のです。発達障害で生まれつき言語能力が低く、文字を目で追っていると「グワーッて頭が痛くなる(息子談)」らしいです。マジか。

「生まれつきの障害があるとはいえ、小さい頃から本に触れさせるべきです」
「読み聞かせをしていたら、障害の大変さが少しは減っていたのでは?」

ああああーっ! すみません! 本当にすみません! 私が悪うございました!!!!

……と謝ってもいいのだけれど、へそ曲がりな私としては、どうしても反論したくなります。「どうして本を読まないことだけが、そんなに責められなきゃならんのじゃ!」と。

読書なんて、しょせん娯楽の一つじゃないか! 本を読まないことを責めるなら、映画を観ない人たちも責めろよ! 音楽を聴かない人も、絵を描かない人も、ダンスをしない人も、ゲームをしない人も、プラモデルを作らない人も、ぜーんぶ責めろよ!!!

まぁ、わかってるんですよ。こんなのは屁理屈だってことは。そして、読書が推奨されるのは、この世の中が「言葉」や「文字」を中心に回っているからだということも。

人とのコミュニケーションはおもに言葉で行うし、勉強もまずは文字が読めなきゃ話になりません。仕事でも、文字で書かれたさまざまな書類が飛び交うのがふつうです。

つまり、人が生きるには言葉と文字の理解が必要なのだから、それを手っ取り早く身につけるには、小さい頃から読書することが一番だってことです。先人が綴ってきた言葉をインプットし、自分のものとして活用できるようにするのが読書なんでしょう。

だからこそ、読者家の文章には多種多様な言葉が用いられます。読んでいても楽しいし、「おお、こんな表現をするのか!」と感動できたりもする。

でも、残念ながら欠点もあります。読書家の人の言葉や文章には、「誰かからの借り物」っぽいフレーバーが漂うことがあるのです。

すごく流暢な文章だったり、関心してしまうような良い言葉だったりするんだけど、「誰かが書いたり話したりした言葉を、そのまま流用してるだけじゃないの?」と感じでしまうというか。「それ、本当にあなたの心から出た言葉なの?」とツッコミたくなるというかね。

もっとわかりやすくいうと、「嘘っぽい」ってことです。

……こう書いていると、読書家である自分にも思い当たる節があり過ぎです。グサグサ刺さってます。痛いです。

その分、息子をはじめとする not読書家の人たちの言葉は、稚拙で乱暴だったりするのですが、その人の心の欠片をそのまま出したような、ありのままの表現として出てくることが多いものです。

それは借り物の言葉ではない分、とても率直でわかりやすくもあり、時には真実をビタッと示したりすることがあるのですが、「なんだよその言い方」とバカにされたり、「失礼なことを言うな!」と怒られたりすることも多いのが難点です。

たのしい時何て言う?
たのしいですと言う
それでいいだろ 言葉なんか

息子の言葉の能力のことで悩んだとき、奥田民生の『何と言う』という曲の、この歌詞に救われたことがあります。

余計な言葉はつかわず、自分の気持ちをそのまま言えることさえできれば、本を読まなくてもなんとかなるんじゃないだろうか。それに、言葉や文字を読書だけで身につけるには、限界があるんじゃないだろうか、と。

あと、特に人との会話する際の言葉においては、「どんな言葉を言うか・つかうか」よりも、「何を言わないでおくか」が大切だったりします。それは、本を読んだからといって身に着くものでもないんじゃないかなーと思うのですがね。

だから読書は、誰かに押し付けられるのではなく、心から本が好きな人がするべきことだし、本が苦手な人だって、「読みたい」と思える本に出会ったらきっと読むんじゃないかなーと思っています。

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