【散文】暗夜は続くよ、どこまでも
十字架の聖ヨハネの『暗夜』を読んで、私自身の今経験していることこそが荒みであり、夜であるということを痛感しています。イグナティウス・ロヨラの場合はたましいの荒みに対して若干厳しく、「おのれの怠惰」ということを突きつけられるのですが、十字架の聖ヨハネは暗夜は誰にでも起こるとしています。
怠惰な人だけでなく、たとえ熱心な人にでも。
自分を超えたところからの恵みや感謝で胸がいっぱいになるという経験は、霊性を歩み始めた初期の頃に起こるものです。このような至福の経験があるからこそ、わたしたちは人生を歩む希望の光を見出すことができるのでしょう。
どんなに美しい瞬間を体験したことがあっても、やがて暗夜は訪れるのだと言います。霊性の完成へと向かうために、人間が通らねばならない浄めが「夜」であると十字架の聖ヨハネは書いています。つまり、この苦しみを伴う夜が愛そのものへと至る手段だとしているのです。
祈るけれども無味乾燥、喜びも慰めも見出すことができない状態は、本人にとっては苦しいものです。この荒みのために祈りを諦めてしまう人もいるほどです。かつて読んだ心理学の書籍には、十字架の聖ヨハネの言うところの「暗夜」は、心理学的にはうつ状態であり、錬金術的に言えば黒化の時期であるといったことが書いてありました。
暗夜=「うつ」とするのは、少し単純化しすぎのような気もしますが、黒化であるとするのは頷けます。黒化は精神の浄化の作業に他ならないからです。錬金術では「黒→白→黄→赤」と階梯を進んでいきます。十字架の聖ヨハネなどのカルメルの霊性では「浄め→照らし→一致」ということが言われます。
ではなぜ、暗夜が浄化につながってゆくのでしょうか。
それは自分自身の弱さや惨めさ、限界を痛感するからなのです。慢心した状態では光が働く余地がありません。仏教に悪人正機説というのがありますが、イエスもまた、罪人よりも傲慢な人の方を問題にしています。罪人は自分の弱さや惨めさを痛感しているので、神性がみずからの裡に働く余地がありますが、傲慢な人にはそれがないからです。
このようなきっかけを与えてくれる体験は、本人にとってはつらい暗闇であるかもしれませんが、浄めというギフトが隠されているかもしれません。同じ体験を通っても、それをどう捉えていくかで受け取るものは変わってくるのです。
わたしはこれまで2度の闘病の経験をし、苦しい浄めは終わって新しい照らしの道に入れるかと思っていましたが、驕りがあったかもしれません。というのも、暗夜は続いていて浄化も継続中だからです。
しばらくは『暗夜』を読み込んで、黙想してみたいと思います。気づきがあれば、またまとめてみたいです。
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