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「バガヴァッド・ギーター」を読んで考えたこと(現状)

岩波文庫「バガヴァッド・ギーター」、なぜか2013年4月購入

部屋にいて、その日、なぜか目について手に取った岩波文庫の本。「バガヴァッド・ギーター」。買った記憶は全くなし。
ただ、後からアマゾンで検索したら、2013年4月に購入していた。なぜその時、買ったのか。

間違っているかもしれないけど、微かな記憶は、シン・テジュンさんか誰か、そうした感じの人の読書記録を見て、感化されて買ったのではないかと。
ただ、一度も開いたことはなく。

なぜかスルスルと読める、読んでしまう

物語は、今の理解では、要するに、様々な一族の紆余曲折の末、戦いに出向く若者が、こんな闘いをして良いのかと躊躇するところ、最高神が姿を変えて別の名前で若者の前に現れて、若者と神が対話し、若者を鼓舞する内容?

そもそもヒンドゥー語?か何か、オーム、シヴァ、アートマン、ヨーガなどなど、聞いたことがある用語がそのままカタカタで書かれており、よく理解できない。よく理解できないけど、なぜかスルスルと読めてしまう不思議。

私はお前と一体とか、松竹梅、上中下の世界やら、真の姿を見せて欲しいというので、お前にだけ見せてやろうと光り輝く姿を見せるとか、もう何がなんだかというめくるめく世界、物語。

要するになんなのか、一喜一憂するな、解脱か輪廻かといった話なのか。
だからなんなん、という内容。

もう一度、いや10回くらい読み返そうと思える

何、このわけがわからない読書体験はとなる。
この感覚、考えらた、「かぐや姫」や「浦島太郎」の物語と同じなのではないかと思い至る。

神との対話とあるけど、それは言葉になっており、何千年前かの人間の頭から生じたものに違いないはず。
それも、一人の人間の頭からではなく、おそらく何人もの頭の中のことが積み重なって、改変、改訂されての物語のはず。

そう思うと、過去の数千人か何人もの人間の叡智の集まりか。この物語も。
人間の情念というか思考の塊の物語、しかも熟成を重ねてきた物語と思えば、そこになんらかの叡智があるはずとも思えてくる。
そういう意味では、まさに宝物かもしれない物語、言葉。

法律も、憲法も一緒じゃないのか?!

ということをつらつらと考えだして、ふとまた思うに、法律、憲法も一緒ではないのか!?ということ。

憲法なんて長い長い人類の歴史の中での今の姿で産物。法律は、憲法ほどの熟成期間はないけど、その地で暮らす人間の様々な問題解決のための人間の間での約束事。

人間が考え出したルール、約束事。その地で暮らす皆が、より多くの人がよりよく生きるための約束事。

そう考えると「ヴァガバッド・ギーター」も、人間の叡智の結晶としてのルール、理想の姿を描いていて、そこになんらかの真理があって、追い求めたら何かいいことがあるのではないかと思えてしまった。

人間なんてという気持ちになると頭にいつも浮かぶのはブリューゲルの農民や村人の絵。
所詮、そこに生きているだけやんと思ってしまう。もちろんそれでOKであり。生きているだけで多分OK。

「バガヴァッド・ギーター」は何を言いたいのか。どうすれば良いのか。もう一度、読んでみる。生きているだけでOKではないのか。
そういえば、結果を求めるのではなく、行為を行動をといったことが書かれていたような。

                                (おわり)