「さよなら」という「おはよう」へ。/白い砂のアクアトープ
ハローグッバイ。二つは一つの言葉だと思う。
You say goodbye and I say hello
君はさよならと言い、ぼくはハローと言う
ビートルズの名曲「Hello, Goodbye」の一節。
『白い砂のアクアトープ』1クール目の締め回となる12話を見て、まず思い浮かんだのがこの曲だった。
12話では登場人物たちの夢がことごとく幕を閉じ、舞台である「がまがま水族館」が老朽化を理由に閉館するなど、様々なグッバイがやってきた。
その反対に、新設される水族館・ティンガーラの話、新たな一歩を歩み始める登場人物たちの姿など、様々なハローを想起させる展開が続いた。
だからこそ、この曲が頭の中にポンと浮かんできたんだと思う。
ハローグッバイ。始まりと終わりの言葉。
ハローとグッバイは、二つで一つの言葉なんだと思う。
「さよなら」は別れではなく、出会いの挨拶だ。
Twitterでも言及したんだけど、
おじいはいつでも何度でも「生き物を好きなってほしい。そこから命を大切に思う気持ちが生まれる」ということを伝え続けているんだけど、12話では具体的に、生き物を好きになった子どもの変化をこんなセリフで表現していた。
「お魚を残さず食べたり、海のゴミを持ち帰ったり、生き物を好きになると優しくなる」
魚を、命を、残さず食することも優しさであり、命を大切にするということであると伝えている。
命を無駄にせず頂き、生きること。
それは今まで生きてきた生物の命に敬意を払い、自分という命も大切にする優しい行為である。
命の終わりが、命を生存させていく。
命の「グッバイ」が、新しい命へ「ハロー」と繋がっていく。
そんな風に理解したとき、頭の中で「Hello, Goodbye」が流れたわけです。
というわけで、もう一度。
You say goodbye and I say hello
君はさよならと言い、ぼくはハローと言う
形あるものはいつか壊れるし、命あるものはいずれ死ぬ。
夢にも終わりが来る。
今、ここに存在するものがいつか終わってしまうのは、語るまでもない周知の事実。変わることのない真実だ。
だからといって、すべてが無に帰して、なくなってしまうわけではない。
倒れた木の幹から芽が伸びるように、
死んだ誰かの志を、生き様を、やり方を受け継ぐように、
終わったところには、種子のようなものが残されていて、確実にそこから新しい何かが芽吹く。
夢だって、終わったからこそ見える境地というものがある。
ハロー、ハロー。
グッバイ、グッバイ。
人生はただ、揺蕩うように「さよなら」と「おはよう」を繰り返す。
さながら波のように、繰り返すだけ。
そうして、命も夢も思いさえも「さよなら」と「おはよう」で繋がって、
溶け込んで、海みたいになっていく。
そんなすごく当たり前で、日常的で、自然なことを、『白い砂のアクアトープ』では描いているように感じる。
というか、そういう風に見ていくと、自分が終わっていくのも悪くないよなあ、なんて思えてくる。
いつか、自分の生命の終わりに「さよなら」を告げたとき、どこかの誰かが「おはよう」と受け取ってくれたら嬉しいなあ、と。
幕を下ろす1クール目。幕を上げる2クール目。
12話では、「さよなら」と「おはよう」がバトンタッチされる様子が随所に描かれていた。
老朽化で立ち行かなくなったがまがまで命を学んだ未来ある子どもたち。
閉館するがまがまから新設されるティンガーラへ引き継がれる魚。
先人であるおじいから知恵と技術と志を受け継いだ後輩飼育員たち。
夢をなくしても立ち上がる力を得た風花。
なくした姉の存在に支えられ前へ進むくくる。
どの瞬間も「さよなら」から「おはよう」へ繋がっているように感じない?
1クール目はがまがま水族館をはじめ、いくつもの夢の残滓が「グッバイ」を告げて、泡のように消え、幕を下げるまでを描いたのだと考えている。
では、幕を上げるのが2クール目なんだとしたら、いったいどんな「ハロー」を告げる出来事が起こるのか。
(まだ13話目以降、見てないんだよね。)
『白い砂のアクアトープ』は割と点数低めの感想を見る機会が多いんだけど、「ハローグッバイ」という観点から観測してみると、すごく温かみがあり希望あふれた作品だと感じられて、個人的には感情移入するところも多く考えさせられた。
形あるものはいつか壊れるし、命あるものはいずれ死ぬ。
夢にも終わりが来る。アニメも終わる。
作品の「さよなら」の時にこの冷めぎみな評価がどんな「おはよう」で受け入れられるのか。
楽しみにしながらこの記事を終えたいと思う。
それでは、ハローグッバイ。