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チー付与47話を見て石原吉郎のことを思い出した

https://comic-days.com/episode/2550689798576140256


私が大学の時にハマっていた「石原吉郎」という詩人を思い出した。

彼は太平洋戦争時に語学力を活かして通信兵として活動していた。戦争終結後はシベリアに抑留され、8年もの間自分の直ぐ側で人権が完全に否定され、多くの人間の命が虫のようにすり潰されていくのを見続けた。


心が摩耗しきっていたが、それでも生きて帰ってきた。生き延びてしまった。帰ってきてしまった。


(彼の「恢復期」というエッセイがまじでえげつない。数年以上のシベリア抑留に耐え抜き、ついに帰還を許され、とある街で少しだけ優しくされた同期の人間は「優しくされたこと」が耐えきれなくなって自殺したり心を病んで死んだ。)

そんな思いをして日本に帰ってきたが、日本には居場所がなかった。日本という国は国のために戦い、必死の思いで生き延びてきたロシアに抑留された人たちを戦犯扱したり厄介者扱いしてまともな仕事から遠ざけた。彼自身も日本社会に適応するすることがもはや困難であった。

帰国した日本の生活環境の間にある大きなギャップに石原は大きな戸惑いを感じた。舞鶴に到着後東京へ戻り品川駅に降り立った時の、シベリアでのゆっくりと過ぎ行く時間の流れとはあまりにも異なった、せわしない人々の動きに恐怖感を覚えた、と石原は書いている。同時に、石原は1960年のエッセイ「こうして始まった」の中で「僕は働くのがいやだった。栄養失調と動物的な恢復をせわしなくくりかえして来た僕の躯は、労働というものを本当に憎んだ」と書いており、ラーゲリにおける強制労働は石原に、労働に対する嫌悪感を残さずにはおかなかった。

石原は帰国直後の思い出を基に、後年自分の日記の中に「人を押しのけなければ生きて行けない世界から、まったく同じ世界へ帰って来たことに気づいた時、私の価値観がささえをうしなったのである」と書いている

親族からは共産党主義者容疑をかけられ、ただの奴隷のように生きることを強いられそうになったので距離を取った。彼にはどこにも居場所がなかった

石原は親類から、潜在的な共産主義者だと見なされ非常に警戒された。石原が最初に言われたことが、共産主義者ではないことを証明せよ、というものだった。その他、経済的な親にはなれないが精神的な親にならなってもよい(言いたかったことの中味は正確には分からないが、経済的な面倒を見る気は一切ない、しかし、「親」の言うことは聞け、という意味らしい)、先祖の供養をするべきだ、と言われた。

彼はものすごく高い知性の持ち主であったから、自暴自棄になって犯罪を犯すようなことはしなかった。というか、彼自身も、自分がシベリア抑留の中で薄汚れた人間になってしまったような自己イメージを持っていて、それは死ぬまで回復することはできなかった。

石原はエッセイ「強制された日常から」の中で、ラーゲリにおける日常を「他者の死を凌しのいで生きるということに他ならない」と書き、『確認されない死のなかで』では「生き残ったという複雑なよろこびには、どうしようもないうしろめたさが最後までつきまとう」とも書いた。亡くなる直前の対談(『キリスト教文学の世界13』月報)では「生き残った人間は、人を告発する資格はない」とも述べている


彼にとっての救いは詩を作ることとアルコールだけだった。


彼は戦前にキリスト教の洗礼を受けていたが、神の教えはあまり彼を救わなかったようである。戦前はもちろん、戦後でもキリスト教についてものすごく複雑な葛藤を抱いていた。

Wikipediaにはなぜか載っていなかったが、晩年のエッセイにはキリスト教に再び救いを求めるような文章が散見されていた。



という話をしたうえで、再び47話。


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