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映画 ブラッド・スェット&ティアーズに何が起こったのか?

映画 ブラッド・スェット&ティアーズに何が起こったのか?
全米No.1 バンドは何故失墜したのか?
横浜にある小さな映画館 横浜シネマリンで
家内と見てきました 

What the Hell Happened to Blood, Sweat & Tears?
1967年にアメリカで結成された同バンドは、ホーン入りロックバンドの先駆者として注目を集め、グラミー賞を受賞したセカンドアルバム「血と汗と涙」でヒットチャートを席巻した。そして70年春、彼らはアメリカ国務省主催により、東欧諸国を巡る“鉄のカーテンツアー”を敢行。しかしその直後、二分化した大衆の社会騒乱に巻き込まれて人気絶頂から転落していく。

コラム:佐々木俊尚 より
1960年代末のこの時期、東欧は揺れていた。1968年にチェコスロバキアで「プラハの春」と呼ばれた民主化の波が起きたからだ。チェコ共産党の政治的リーダーとなったドゥプチェク第一書記が報道や言論の自由を認め、移動の自由も確保すると国民に約束したのである。これに怒ったソ連は50万人もの規模の軍隊をチェコに送り込み、全土を制圧して民主化の息の根を止めた。

同じ東欧共産圏のルーマニアでは、チャウシェスク国家評議会議長がチェコとは別の方法で独自のバランス外交を実現しようとしていた。チャウシェスクはその後恐ろしい独裁者となり、ソ連崩壊後の革命で最期は処刑されたが、1960年代末のこの時期には比較的自由を容認するリベラルな政策を採っていた。ソ連からはなるべく距離を置いて自決権を増やし、アメリカとも仲良くして経済的利益を得るという方針だったのである。

そういう流れの中で、1969年には米ニクソン大統領がルーマニアを訪問。アメリカ大統領が東欧共産圏を訪問するのは初めてのできごとだった。そしてこの機に乗じて、アメリカ国務省(日本で言う外務省)はロックバンドを東欧にツアーに行かせ、それを映画化するという企画を考えた。

本作でも、BS&Tの東欧ツアーを東欧の「独裁国家の文化的な洗脳に対抗するためのものだった」というセリフが出てくる。ニクソン政権に接近したいルーマニアのチャウシェスクはツアーを容認し、そこで1970年にルーマニアやユーゴスラヴィア、ポーランドなどをまわる「鉄のカーテンツアー」を決行することになったのである。

しかしこの時代のアメリカは、ベトナム戦争の余波もあってロックなど若者のサブカルチャーでは反体制・反権力の色が濃かった。それなのになぜロックのメインストリームにいたBS&Tが、国務省の誘いに乗って東欧ツアーに出たのか。その謎解きが、本作前半の最初の山場になっている。その中身については、ぜひ本作を観て驚いてほしい。

この時代のソ連や東欧共産圏は、経済だけでなく文化も固く門戸を閉ざしていた。西側のサブカルチャーなど無縁の土地だったのである。ロックは当然のように「資本主義の侵略」として禁止されていた。そういう抑圧的で陰鬱な地味な世界に、いきなり最先端の派手なブラス・ロックのバンドがやってきたのである。人々が信じられないほどに熱狂したのは当然だった。

このライブに参加したルーマニア人観客の証言が次々に出てくる。「自由な感じが格別だった」「世界がひっくり返るような体験だった」「単なるコンサートではなく、それ以上のものだった。私たちルーマニア人に、国境の先の大きな自由を教えてくれた」

当時の興奮がまざまざと伝わってくる。抑圧された国の扉をこじ開け、明るい自由な未来をかいま見せてくれたのがBS&Tの演奏だったのである。そういう自由への渇望は、コンサート会場を手に負えないほどの興奮と混乱に落とし込んでいく。たまりかねて軍がコンサートに介入し、あちこちで観客と兵士の小競り合いが起きる。火がつけられる。大騒ぎになった。

東欧ツアーは国務省の費用で撮影され、アメリカで映画化される予定だった。しかし混乱に恐れをなしたルーマニア政府は撮影されたフィルムの国外持ち出しを阻止しようとし、それに対して撮影チームは……とここでもスパイ映画さながらの展開にドキドキさせられる。実話とも思えないスリリングな展開だ。

最終的にフィルムは持ち出され、米国に無事に輸送された。しかし結果的に、映画化はされなかった。ルーマニア政府との関係悪化を恐れた国務省がお蔵入りにしてしまったからである。しかしこのフィルムがあったことが、本作を非常に素晴らしい音楽映画にもしている。ふんだんに演奏シーンが差しはさまれ、BS&Tの音楽をたっぷり楽しみたい観客にも満足できる内容になっているのだ。昨今の音楽ドキュメンタリーには関係者のインタビューシーンばかりが延々と続き、演奏シーンが途切れ途切れしか挿入されず、ストレスが溜まりまくる嫌な作品も少なくないが、本作についてはそんな心配は一切ない。

そして本作は東欧ツアーの終了とともに終わらず、物語はさらに驚くべき展開を見せる。アメリカに帰国してみたら、サブカルチャー系のメディアから猛烈なバッシングを受けるのだ。

「政府のために行ったんだな」「共産主義の『独裁』などと言っているが、それは米政府のプロパガンダだろう」「ファシストロックバンドと呼ばれる日も遠くない」

これらの非難に対して、BS&Tのメンバーは誠実に受け答えしている。「共産圏の独裁は真実だった。恐ろしいほどにね」「アメリカでは国民と政府を二分しがちだが、政府にもいろいろな人たちがいることをわかってほしい」「今まではアメリカのあやまちを非難していたが、もっとひどい過ちを見ると見方が変わるんだ」「当たり前と思っていた自由を大事にしなければならないと思うようになった」

どれもごく良識的な発言だと思うが、サブカルチャー業界は冷たかった。「CIAに洗脳されたロックバンド」というスティグマ(烙印)を押しつけたのである。激しく非難したメディアのひとつに、著名な音楽誌「ローリングストーン」がある。非難した同誌の記者は半世紀前の自分の記事を振り返って「鼻持ちならない記事だったね」と後悔を口にしている。

「彼らをカルチャー革命の一部だと認めていなかった。カルチャー革命の名のもとに大馬鹿になっていた者たちがいた。私がそうだったんだ」

以上が 佐々木俊尚氏のコラムより抜粋

私自身は 1971年 中学3年の時 約5か月 従兄の家に下宿していた
3つ年上の従兄はロックが好きで ブラスロック シカゴのレコードや
サンタナ などよく聞いていた

残念ながらブラッド・スェット&ティアーズ は知らなかった
今回 この映画を横浜の シネマリンという小さな映画館で 同じ歳の
家内のリクエストで見に行った

ブラッド・スェット&ティアーズの 経歴を調べてみた
1967年結成
1968年12月に バンド名を ブラッド・スェット&ティアーズ
1969年8月17日の ウッドストックにも参加したが ギャラが支払われず
 マネージャーが 3曲以降の撮影を拒否  音源は残っているが 映像は
ウッドストックの映画には出て来ない

1969年、セカンド・アルバム『血と汗と涙』はグラミー賞の最優秀アルバムを受賞
しかし この年には グラミー賞 受賞式のテレビ放送はなく 次の年から
テレビ放送が開始された

映画 ウッドストック  グラミー賞 受賞式のテレビ放送 
もし動画があれば もっと人気が 長続きしたと思う

今回の映画の1970年6月17日
ルーマニア チェコ ポーランド ツアーの様子など見られる
撮影フィルムは 押収されそうになるが 何とか持ち帰ったが 長い間
公開されなかった 

その後 1971年 初来日 日本武道館でコンサートなど行われ
メンバーを変えながら 現在も ワールド ツアーをおこなっている

サポートメンバーや 短期間のメンバーを調べたところ
ランディ ブレッカー  1967-1968
ウエイン ショタ―   1990-1991
ジャコ パストリアス  1975-1973
ルー ソロフ      1968-1973
マイク スターン    1976-1978
ステイーブ カーン   1975

など ブレッカーブラザーズ  ウエザー レポート マイルス デイビスバンドや マンハッタン ジャズ クインテット等で
活躍したメンバーが在籍していた

また メンバーのその後 の経歴をみると
ドラマーだった ボビー・コロンビーは CBSレコードの副社長にまで出世
他のメンバーも実業家として成功しているようだ



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