前田家の近代と旧重臣家 宮下和幸
加賀前田家といえば、「百万石」のフレーズを用いて語られることが多く、そのイメージに覆われていることは否めない。本巻(『前田家―加賀藩―』)では、そのイメージをひとまず横に置き、大名家としての前田家、そして「御家」のあり方を意識しながら叙述している。前田利家から前田慶寧までの歴代における婚姻・江戸城殿席・武家官位・陪臣叙爵などを取り上げながら、前田家が「外様の徳川大名化」の典型例に位置付けられることを明らかにし、さらに「御家」の確立・維持に注目して、前田家が将軍から天子、そして皇室の「藩屏」へと変容していく姿を示したが、これはあくまでも一つの見解であり、何より今後の分析が求められる。ここでは、本巻の“その後”として、前田侯爵家と男爵家となった旧重臣家との関係性について、現段階における展望を示してみたい。
「皇室ノ藩屏」としての前田家 「皇室ノ藩屏」としての前田家は、ほとんど分析されていないのが現状といえるが、公益財団法人前田育徳会が公開に向けて現在史料整理をすすめており、着実に研究できる環境が整ってきている(以下、とくに断りのない場合は前田育徳会所蔵史料)。
明治二年(一八六九)の版籍奉還後、華族に列した前田家は、同十七年に華族制度が制定されると、当主の前田利嗣が侯爵に叙せられている。本巻では、「皇室ノ藩屏」としての前田家を維持・発展させるものとして、前田斉泰・前田慶寧の娘たちの再嫁を取り上げたが、これは皇族や公家出身の有力華族との婚姻が目指されたものとみられる。そして、同四十三年には念願であった前田邸への天皇行幸がおこなわれている。
その前田家では、版籍奉還によって家政と藩政が分離し、家令以下、家職員が配置されることになったが、同三年と推定される史料では、家職員として約一六〇名が記載されている。その家職員に関する規則については、同十二年改定と推定される事務仮規程が確認でき、同十五年には職務章程が正式に制定されている(「前田家諸規則」)。さらに、同年には家法も制定されているが、多くの草稿が確認できることから、念入りに作成されたことがうかがえ、岩倉具視をはじめ、東久世や五辻といった親交ある有力華族の添削を受けている。
そして、明治二十九年には家範が制定されている。「明治二十七年六月三十日、同令追加ヲ発布セラレ、華族ヲシテ家範ヲ定ムルコトヲ得セシム、利嗣曩ニ明治十五年ニ於テ先考ノ遺志ヲ継キ、夭父君ノ教令ヲ奉シ家法条目ヲ定メタリ」「乃チ曩ニ定メタル家法条目ヲ修訂シ、華族令ニ従ヒ、改テ家範ト為ス」(「家範」)とあることから、同二十七年に出された改正華族令を受けて、さきの家法を修訂したものであったことがわかるが、このように家法や家職員の規則を整備しながら、「皇室ノ藩屏」としての前田侯爵家が確立していったとみられる。
男爵家となった旧重臣家 明治十七年(一八八四)、華族令および叙爵内規の制定によって華族制度が法的にも確立するが、華族はその成立経緯によって大きく二つに分けられる。一つは、公卿や諸侯といった同二年の太政官達によって誕生した家柄華族であり、華族令によって公・侯・伯・子・男の五爵制が定められると、前述のとおり前田家当主の前田利嗣は侯爵に叙せられている。そして、もう一つは華族令の公布以降に華族となった者たちであり、国家への勲功を理由として、日清戦争や日露戦争後に軍人が男爵となるケースが多いが、そのほかにも日清・日露の戦間期には官僚や財界人、華族の分家や旧大藩における重臣家の現当主が男爵になっている。同三十三年はまさにその期間にあたるが、国家に対する勲功を有する者、および旧藩時代に一万石以上を有した大名家の一門や家老の現当主六〇名に対して男爵が授けられ、華族に列している。このとき前田家の旧重臣家からは、本多政以・長克連・横山隆平・奥村栄滋(宗家)・村井長八郎・前田孝(長種系)・前田直行(直之系)・奥村則英(支家)の元年寄衆八家から全員、今枝直規・斯波(津田)蕃の元人持家の二名が男爵となっている。斯波に関しては、与力知を除くと八五〇〇石で一万石に満たず、基準をクリアしていなかったものの、戊辰戦争(北越戦線)での功績が認められての授爵であった。
そして、同三十五年十月、この十名の男爵が連名で規約を作成している(「明治三十五年ヨリ同三十九年奥村栄滋・前田孝・奥村則英三男爵負債整理補助一件」)。規約は大きく六項目に分けられ、①「右十家ハ相互ニ規約ヲ設ケ、永遠ニ皇室ノ藩屏タル責務ヲ尽スコトヲ勉ムヘキ事」とあるように、まずは「皇室ノ藩屏」としての責務を果たすことが掲げられ、②「自己ノ過失ニ因ラサル負債ヲ有シ家計困難ニ陥リ、華族ノ礼遇ヲ停止セラルヽカ如キ不都合ナル状況ニ在ル者ハ、其詳細ナル事実ヲ調査シ、之レカ救済ノ途ヲ講究スヘキ事」と、負債により困窮に陥った場合の救済についても示されている。さらに、③世襲財産、④子弟の教育に注意し就学させること、⑤有益の職業に従事し、常に節倹に勉め、家政を整理して財産の基礎を強固にするよう図ること、そして⑥「必要ナル場合ニハ、相互ニ職業ヲ得セシムルノ途ヲ謀ルヘキ事」とあり、子弟教育や職業への従事・斡旋についても述べられている。つまり、華族の一員としての自覚をもって「皇室ノ藩屏」としての責務を果たすこと、自身の家に何かあれば報告し、相互に扶助することが規約に盛り込まれていたことがわかる。このように、旧重臣家から十名の男爵を輩出したわけだが、彼らは「皇国ノ藩屏」としての立場ながら、その一方で旧主家である前田侯爵家とも関わりつづけることになる。
たとえば、前田家(直之系、前田土佐守家と称される)は、藩政期に一門筆頭の家柄であり、歴代当主が叙爵するなど「格別」の扱いを受けていたが、当時男爵となった前田直行は、明治三十二年から前田家の家令であり、男爵授爵後の貴族院議員への打診は固辞して、前田家の家政に関わりつづけている。その後、直行は家令を解かれるが、評議員として前田家に関与しており、明治から大正への移り変わりのなかで前田侯爵家を支えている。また、同じく村井家の当主であった村井恒も、長らく家令として前田家を支えていた(村井恒自身は授爵前に死去)。そのほかにも、横山隆平、前田豊(長種系)、奥村栄滋(宗家)、本多政以、長基連、そして斯波忠三郎といった面々が、評議人に名を連ねている(「家職員前録」)。
以上、旧重臣家のうち、現当主が男爵となった家が規約で連帯し、「皇室ノ藩屏」としての責務を果たすなかで、その当主が家令や評議人として前田侯爵家を支えていく構図については、近世のあり方との比較はもちろんのこと、「旧誼」や「情誼」といった視点も含めながら評価しなければならない。ちなみに、旧重臣家の者が家令や評議人となって前田家を支えるべきという意見は、金沢にいた旧家臣による要求でもあり、明治十四年ごろに複数の意見書が出されていることから、この時期が一つの画期であった可能性もある。近世では政治意思決定に参画しながら大名家を支えていた重臣家は、近代でもいわゆる大名華族家の意思決定を担っていたともいえよう。
(みやした かずゆき・金沢市立玉川図書館近世史料館学芸員)