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主君を諫めるときの言葉―仙台伊達家の場合― J・F・モリス

 仙台伊達家は、一八世紀中葉から一九世紀前半にかけの宝暦、天明、天保の三大飢饉を経て、大名統治の正当性についての考え方が大きく変化した。大名の絶対的優位性を捨てて、大名自身も「国民」あっての大名家という認識に転換する。大名権力の濫用から人々を守る第一の勢力は、一門衆だった。一門がこの役割を獲得するのは、四代大名綱村つなむら(一六五九―一七一九)の時だった。

 仙台藩の一門は、宗家の分脈として儀礼的な場面において他の家臣を凌ぐ地位にあった反面、藩の役職に就かず日々の政治運営に携わらない存在だった。つまり権威はあったが藩政に介入する権限も拠り所もなかった。

 綱村は、伊達騒動の発端となった父綱宗つなむねの強制隠居を受けて生後一六ヵ月で万治三年(一六六〇)に家督を継いだ。理想の君主となるべく英才教育を受けて育った。しかし成人して教わった通りの儒学的な政治を実践しようとするとそれが逆に混乱を招くことになった。綱村の人材登用と厳格な賞罰は極端だったことに加えて、政治方針も含めてすべて一貫性に欠け混沌を生むだけとなった。さらに綱村の乱脈財政への補填が家臣団に知行借上げとして転嫁され、恣意的な懲罰とあわせて家臣の家の存続を脅かすことになった。従来、綱村は権力の集中と強化を図ったと評価されてきたが、彼の行動の根底にあったのは、対人関係が難しい、また細かいことにこだわるあまり物事を総合して把握できないという彼の生まれつきの特性があった。綱村のこの特性は、大名でなければ特別の才能として活かす道もあっただろうが、本人が理想の主君たらんともがくほど問題が深刻になり、次第に政治の機能不全に陥る事態を招いた。そこで伊達の御家の危機を救おうと動き出したのが家臣団主席の一門衆だった。ただし一門衆がこの役割を果たすためには、正当性を獲得して示すという課題が立ちはだかっていた。

 貞享三年の諫言 一門が最初に連携して綱村に諫言書かんげんしょを出したのは貞享三年(一六八六)三月であった。署名人は一門一〇家中の二家三人(うち二人は親子)だった(『仙台市史』資料編2近世1。以下『市史』と略す)。この段階では一門はまだ集団としてまとまって行動するに至っていなかった。
 諫言書には大きな特徴が三つある。第一には、綱村治政の混乱の責任は綱村にはなく、綱村寵臣の古内ふるうち造酒祐みきのすけ(佑)重直しげなお一人にあるとしている。一門の綱村への進言(要求)の基本は、古内を退けることであって、古内の悪政を御存知ないとして綱村自身への一切の批判を回避している。第二の特徴は、悪政の犠牲者として「四民」・「万民」という言葉こそ使ってはいるが、具体的な記述は「御譜代ふだいの諸士」が中心だ。庶民諸身分の具体的な姿こそ諫言書にはないが、一門は、藩内の様々な身分の民意を代表しており自分たちだけの一存ではないことを主張し、論の正当性を担保しようとしている。一門が古内の排斥を企てているという情報が外部に漏れたら人々が一門の屋敷の門前に群がり、その行動が群衆の支持を得ていたことが知られる(『市史』)。第三に、諫言書には、「国民」および「万民帰服」という、後世の政治言説で大名権力の相対化に使われた言葉はみられるものの、この段階では大きな論理的重みをもつに至っていない。

 諫言書を受け取った綱村は、その四日後に古内に知行没収・蟄居ちっきょという厳しい処分を言い渡し、古内の施策に反対して奉行職を罷免された遠藤良雄を再任し体制の立て直しを図る姿勢を示した。 

 元禄六年の諫言 しかし、実際のところ、古内は綱村悪政の根源ではなくその発露に過ぎなかった。その後、綱村の政治運営が改善するどころか、さらに混乱が深まり、元禄六年(一六九三)三月二三日に周到な意見調整を経て、一門八人が連署して綱村に諫言書を差し出した(『岩出山町史資料』第七集⑫)。内容は、正面から綱村を批判するものである。今度一門が用いた論法は、ひとえに綱村の治政が場当たり的で一貫性がなく原理原則を欠くから、日々の行政運営が混乱に陥り、「家老」(奉行)以下の諸役人でも綱村側近でも主君の怒りと懲罰を恐れるあまり仕事が進まないこと、および綱村の寺社造営や別荘建設費のために家臣に過酷な財政的負担をかけている、という二点に集約できる。百姓・町人や「四民」も文章に出てくるが、依然として記述には具体性はない。人材登用を装ってきた綱村の不適切な人事管理の結果、官僚機構によっても側近によっても政治が行えないという実態が文面から浮かび上がってくる。なかでも諫言書の総括の中の次の二つの点に一門の論理が凝縮されている。

『家からみる江戸大名 伊達家―仙台藩―』の書影

 一つ目は、第四条の冒頭で「御政事まつりごとの本ハ御下中かちゅう豊かニまかりなる候様ニ遊ばれるべき」と断言し、家中の家の成り立ちを保障することが大名政治の基本だと言い切っている。この責務を果たさない大名は家中と四民の帰服を失い将軍への奉公が果たせず「御家」が滅亡すると警告する。二つ目は、大名諸家の「滅亡」は家中の騒動を発端とすると断じ、家中を豊かにしない政治が辿る末路を忠告している。もしも綱村がここで行動を改めなければ「御家の滅亡」となる。だから今が「御家浮沈の時節」だと結んでいる。

 一門の主張は、「御家の浮沈」を諫言の大義名分に掲げる限りで封建的な道徳観に収まる。しかし、論の核心は、大名が家中を豊かにしてその家の永続を保障することを怠れば家中が大名に帰服せず「御家」存立の危機を招くという主張にある。主君の圧倒的優位を説く公式道徳を逆手に捉えその権力の相対化と制限を意味する主張は、すでに元禄の諫言書に確認できる。

 一門の諫言書を受け取った綱村は、その三日後に自分の「短慮」が招く混乱を反省して神妙に詫び、今後自分の行いを改めると約束した。

 元禄一〇年の隠居願 案の定、綱村は約束が守れず治政の混乱が深まっていくばかりであった。綱村の奇行が「生来」のもので改善が望めないと悟った一門衆は、奉行衆と連著で、綱村の義理の兄の稲葉正通まさみちに綱村の隠居願を提出した。その際、幕府実力者の正通を納得させるのには、諫言書と違った論理が必要だった。一門は、現在の綱村の奇行はもはや乱心の域だと主張する。綱村が将軍の御前にて「忍び難い」言動に出る恐れがある状況でこの事実を家臣として報告しなければ「公方様へ伊達の家よりの不忠」になることを第一に、第二には、幕府に綱村の乱心の模様が露顕すれば「伊達の御家破滅の基」となることを報告する根拠とした(『市史』)。

 一門らは併せて別紙にて綱村の問題行為の数々を掲げる。大筋において二通の諫言書と大同小異であり、綱村の行為が幕府の譴責けんせきを招く危険があることを随所で訴える。言葉として「民」・「四民」はみられるが全体として家中の辛苦が主題である。論の核心は綱村が主従関係の破壊をもたらしたとする主張にある。重臣たちいわく。御家中には綱村に「親和帰服」する者は一人もおらず「尊体」(綱村)を「寇讎こうしゅう」(アダ)のように思っているので、名ばかりの主君であると断じる。

 重臣たちの願書を受け取った正通は、将軍に対し綱村の行動に失態はないので強制隠居には及ばないが、自分は綱村の先を監視すると約束した。元禄一六年(一七〇三)にいよいよ正通がこの約束を履行し綱村の強制隠居となった。

(J・F・モリス 宮城学院女子大学名誉教授) 


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