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代数問題にみる井伊家 野田浩子

 江戸時代の大名は一般に「藩主」と表現される。「藩」の一文字で江戸時代の大名家による地域行政組織を示すことができ、一般向けに簡潔な文章を書く際には便利な言葉である。

 しかし、彦根藩主井伊家の代数をあらわす場合、「藩主」ではなく「当主」を用いるようにしている。前職の彦根城博物館学芸員時代もそのようにしており、このたび上梓した『井伊家―彦根藩―』でも同様にした。井伊家の場合、藩主と当主で異なる二つのかぞえ方が並存しているためである。
 国替えした大名家では、当主と藩主の代数にズレが生じる。「地名+藩主」でかぞえる代数は領地が移るとリセットされ、「家」の当主として連続する代数とは異なってくるためである。しかし井伊家は一度も国替えしておらず、こういったことは起こらない。

 井伊家で藩主と当主の代数に差が出るのは二つの理由で三人が該当する。一人目は初代直政なおまさの嫡子、直継なおつぐである。慶長七年(一六〇二)に直政が死去したあと、直継が十三歳(数え年、以下も同じ)で家督を相続して佐和山十八万石の大名となった(まもなく彦根に居城を移す)。ところが、慶長十九年、大坂冬の陣の際に徳川家康は直政二男の直孝なおたか大番頭おおばんがしら、領地は一万石)に対して井伊家の大将を務めるよう命じ、帰陣後、直孝は直政所領のうち近江十五万石を相続して彦根藩主となった。名目上は直継の病気のためとされたが、実際には直孝の方が徳川筆頭家臣という直政の役割を継承するにふさわしいと、能力面で判断されたのであった。直政の後継者を交代したということであり、享和元年(一八〇一)に幕府へ提出した「井伊家系譜」でも直孝は直政の家督を相続したと記されている。直継は直政の領地のうち上野国の三万石を与えられ、別の大名家をたてた。その家系は数度の国替えのあと、越後国与板藩として幕末まで続いている。そのため、直継は慶長七年から十九年までは「彦根藩主」ということができるが、家系でみれば彦根井伊家とは別の家となる。

 もう一つの理由は、一度隠居した後に再度当主に就いている者が二人いるためである。四代直興なおおきと八代直定なおさだが再勤している。

 領地を治める長としての「彦根藩主」を列記する場合、直継も再勤者も含み、それぞれ一代とみなすことになる。そうでないと在任期間に空白が生じてしまう。このかぞえ方では最後の藩主である直憲なおのりで十七代となる。二〇〇八年刊行の『新修彦根市史』(通史編近世)ではこちらが採用されている。

 一方、地元の郷土史等では長年、直継は歴代に含めず、再勤した場合も一人とかぞえ、直憲を十四代としてきた。江戸時代の史料でもこのかぞえ方をするものが多い。例えば「井伊家系譜」では再勤時は改めて人名を立てて再勤期間の事項を記すが代数欄には「再勤」と記し、新たな一代とはしていない。

 江戸時代の社会は「家」を基盤としており、属する「家」によって暮らしや仕事が定められていた。その社会では、「家」の繁栄は先祖のおかげという意識のもと、歴代当主ら先祖への祭祀が重視された。井伊家で行われた先祖祭祀でその対象者をみると、一族であっても別家の先祖となる直継は含まれない。また、再勤した者は先祖としては一人となる。このように、歴代当主を「家」の先祖と考えると後者のかぞえ方となる。

 そもそも大名とは、領地支配だけがその役割というわけではない。大名は徳川将軍と主従関係を結んで領地を与えられており、将軍へ奉公することが求められた。参勤して江戸に滞在し、江戸城で実施される殿中儀礼のたびに将軍へ対面して臣下の礼をとるのもその一つである。また、幕府は各大名に普請ふしん(土木工事)や警備などさまざまな役を課した。大名は膨大な費用負担を強いられても幕府の命令に応じて、将軍へ奉公することになる。

 井伊家で当主の再勤という珍しい継承方法がとられたのも、将軍への奉公と関連づけて考えることができる。宝永七年(一七一〇)、直興が再勤を命じられた際の文言に「掃部頭かもんのかみ家(=彦根井伊家)の儀は、御代々格別御奉公も相勤め候事に候」(「井伊家系譜」)とあるためである。

 ここで、直興が再勤した状況をみていくと、直興から家督を譲られた直通なおみち(直興嫡男)が宝永七年、二十二歳の若さで死去し、その家督を相続した弟の直恒もわずか二ヵ月で死去してしまった。一般的な相続方式であれば次弟の直惟なおのぶ(当時十一歳)に当主を継がせることになるが、今回はその方法が採用されず、井伊家は「御代々格別御奉公」を務める家なので、次期当主が成長して奉公できるようになるまでは直興が再勤するようにと幕府から命じられたのであった。

『家からみる江戸大名 井伊家―彦根藩―』の書影

 では、「御代々格別御奉公」とはどういうものであろう。

 それは一言でいえば、井伊直孝が将軍家光・家綱のもとで確立した井伊家独自の役割である。直孝は家光政権で年寄に加わり、将軍が重要な政策判断を下す会議には直孝も列席した。直興が就いた大老職とは、その役割が形を変えて継承されたものといえる。殿中儀礼の場では、直孝は幕閣の位置に列座し、時には将軍の代理を務めた。官位序列で家臣の筆頭に位置する直孝が将軍の発言や行為を代行することで、将軍の威光をあらわした。また、家光の跡継ぎとして誕生した若君家綱の成長儀礼でも、直孝は筆頭家臣にふさわしい役を務めた。

 特に、将軍家にとって一世一代ともいえる大きな行事で直孝が務めた次の御用は、その後も井伊家代々へと受け継がれた。これらは費用負担も大きく、他の大名へ課した普請役などと同様、課役の一種とみることができる。具体的には
 若君御成おなり(将軍家若君が宮参り後に井伊家屋敷に立ち寄る)
 若君元服加冠かかん役(若君の元服式で冠を着ける役を務める)
 日光名代みょうだい(家康遠忌に将軍の名代として日光東照宮に参拝する)
 朝鮮人来聘(朝鮮通信使に対して筆頭家臣として応接する)
といった御用である。

 直興が再勤したとき、これらが実施される予定があった。前年に将軍が家宣へと代替わりしており、まもなく新将軍の就任を祝う朝鮮通信使が派遣されることになる。また、数年後には将軍世継ぎである家継の元服式が見込まれる。この時点で直惟なおのぶが井伊家当主に就いたとしても、若い直惟ではこれらの行事で将軍の威光をあらわす役割を果たすことはできない。井伊家が代々務めてきた御用を今回も命じられるためには成人の当主が必要であり、隠居していた直興が当主に戻って御用を務めたのであった。四年後、直興は再度隠居して十五歳になった直惟が当主に就いており、直興の再勤とはその間に実施される御用を務めるための「ワンポイントリリーフ」であったといえよう。

 このように、代数問題の要因となった直継から直孝への当主交代も当主再勤も、徳川譜代筆頭の家に与えられた役割を遂行できる状態にするため特例として認められたものといえる。

 「家からみる江戸大名」シリーズ中、井伊家は唯一の譜代大名である。譜代大名の本質は徳川将軍の家臣という点で外様大名と異なる。本書では、そのような譜代大名の筆頭という点に注目することで井伊家の特質に迫ろうとした。

(のだ ひろこ・立命館大学等非常勤講師) 


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