近世史研究の現場から思う 志村 洋
『地域からみる近世社会』の刊行に編者の一人として関わる機会を得た。シリーズ『日本近世史を見通す』のうちの第四巻である。本が売れないこのご時勢に、近世史だけで七巻分のシリーズとは、なんとも豪儀というか、無謀というべきか。出版社の英断には感謝しなければならない。
そもそも近世史という分野は、日本史のなかでもあまり人気がない。私の勤務する大学では、学部二年生の秋にゼミ振り分けの希望調査を行っているが、いつも近現代史ゼミか中世史ゼミが学生の人気を集めている。近世史を第一志望にする学生は近現代史のせいぜい半分程度。小人数なのは個人的にはむしろ好都合だったりするのだが、あまりの少なさに、「うちの大学でも近世は似た状況だよ」と聞いて、ほっと安堵したこともある。
近世史の魅力を今の時代の学生や市民に伝えるにはどうしたらよいのか。これがわりと難しい。ましてや私の専門分野はいわゆる村落史の範疇である。神社仏閣巡りを趣味とする歴史愛好家などには縁遠い世界である。学部生を相手に論文の意義や新しさを説明することはできたとしても、村落史や地域史研究の面白さを教室で生き生きと伝えるような言葉は、残念ながらまだ持ちえていない。
ふり返ると、私が近世史研究の世界に興味を持つようになったきっかけも近世史そのものではなかった。学部三年生の春に初めて参加したインターカレッジの古文書調査合宿が楽しかった、ただそれだけである。にょろにょろとした形のくずし字が少しずつ読めるようになることはそれなりに面白かったが、調査にまつわる諸々のことが私の性には合った。宿舎の夜の宴会で第一線の研究者や院生たちが語りあう研究こぼれ話や、午後の休憩時間に史料調査にご協力いただいた御当家の御主人から個人的に聞いた古文書所蔵者としての思いや願い。ふだん教室では聞けないようなさまざまな話を旅先の調査現場で見聞きできることが、何も知らない学部生の私にはとても刺激的であった。そうした生の現場感覚を今の学生にうまく伝えることができたなら、多少は近世史ゼミの人気も増えるかも知れない。
近世史の研究者が他の時代の研究者とは違う何かを共有しているとしたら、この現場感覚ではなかろうか。『地域からみる近世社会』の執筆者たちは出身大学も研究フィールドもそれぞれだが、みな学生時代にどこかの町や村で古文書調査に勤しんできたはずである。ほこりの被った未整理の古文書の山を前に、似たような体験をしてきた、いわば“同じ釜の飯を食った仲”なのだと私は思う。
古文書調査というものは本来的に非効率な営みであって、ムラ社会の結のようなものだとも思っている。ひとつの調査地で数百から数千点程度の未整理文書を取り上げて、一点ごとに古文書の作成者と宛先、作成年代、書かれている内容、形態などをこまごまと書き留め、目録化していく作業である。その史料群が本当に自分の研究に活用できるのかはある程度作業を進めてみないとわからないし、大量であるがゆえに仲間の協力も必要となる。『地域からみる近世社会』のなかには、そうしたゼロからの古文書調査の成果にもとづいて書かれた論考がある。一本の論考に仕上げるまでにたくさんの寄り道をしてきたわけであり、まことに非効率ともいえるが、その無駄な部分があるということが実は大事なことだと思っている。
著者各人が持つ現代的課題意識は明示的には語られてはいないが、本書のなかに読者諸氏自身の課題意識に触れる小さな何かが見いだせたならば、本書の目的はほぼ達成されたものと考える。
右は『地域からみる近世社会』のプロローグに書いた一文である。近世史研究の現在を紹介する本に現代的課題意識とはいささか唐突だが、どこかで期待している自分がいる。史料を求めて地方の町や村を歩くと、今の地域社会が抱えているさまざまな問題が否が応でも目に入ってくる。著者の思いが文章を介して読者の思いと共鳴することができたら、それはこのうえもなくうれしいことである。
この点、私が忘れられないのは、修士論文執筆のために一人で史料撮影に訪れた信州北安曇郡や東筑摩郡の村々での光景である。そのひとつ、松本藩池田組に属したB村の元庄屋家は公共交通機関がまったくない山の中にあった。朝、松本市内でレンタカーを借りて川沿いの地方道やすれ違いのできない幅の簡易舗装の山道を登っていくと、一時間ほどして古文書所蔵者のAさん宅にたどり着いた。Aさん宅は屋根こそ金属製のものに葺き替えられていたが、建物は明らかに江戸時代のものであった。到着してすぐに重いマイクロカメラを背負って土間から屋内に入ると、暗さにまだ目が慣れないなか、コタツにあたっている一人のおばあさんと目が合った。九〇を数歳越えた、Aさんのお母様だった。聞けば、その集落で今も人が住んでいる家は二軒のみ。しかも、ふだんからその家で暮らしているのはおばあさんだけで、それ以外の家族は、Aさんも含めてみな車で二〇分ほど山を下った麓の町にある別の家に住んでいるという。B村は江戸時代には紙漉きや林業などで栄え、池田組三三ヶ村のなかでも最も多くの人口を抱える豊かな村であった。寛政元年(一七八九)のB村の戸数は二〇〇軒。村内に残された庚申塔・馬頭観音・二十三夜塔などの石造文化財の数は、現在の池田町内で最も多い四九五を数えている。その豊かだった村が私が訪れた一九九〇年頃には五〇軒程度に減り、A家のある集落ではわずか二軒に減っていた。現在では限界集落という言葉をあちこちの地域で耳にするが、まだその言葉が流布していなかった三十数年前には、とても印象的な光景だった。
今回私が執筆を担当した章は、松本城下町に隣接した村の土地再開発に関する話である。現在その松本城と周辺地区には大勢の観光客が訪れ、ホテルが予約できないほどに市内は賑わっている。狭く渋滞の激しかった市中心部の道路も区画整理できれいに整備され、かつては狭い路地に軒を連ねていた白壁土蔵造りの商家も全面ガラス張りのブティックなどに様変わりした。こうした現在の観光地化した松本しか知らないゼミ生の何人かを、かつて私が訪れた北安曇や東筑摩の村々までドライブと称して連れて行ったらどういう顔をするだろうか。いつか本当にやってやろうと思っている。
(しむら ひろし・関西学院大学文学部教授)