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和製ジャズ温故知新.再編Vol.6/進駐軍ジャズ

1945年の終戦とともに、今まで敵性音楽として禁止されていたジャズが演奏されるようになる。

終戦とともにGHQ(連合国総司令部)の指導のもと、翌年から音楽放送も始まる。ここが大事なところで、戦争に敗れた日本は米国の指導のもと、ジャズを始めるのである。

「ニュー・パシフィック・アワー」というタイトルで松本伸の率いる「ニューパシフィック楽団」が登場する。この楽団には後に自分のバンドを持って活躍した、渡辺 弘、菊池滋弥、谷口又士、飯山茂雄、ジミー原田、森山 久等そうそうたるプレイヤーで編成されていた。

このメンバーはいずれも戦前、戦中を通じスタープレイヤーとして名を馳せたメンバーばかりである。

この当時の多くのメンバーは、軍楽隊出身でクラシックやマーチをたたき込まれた腕をジャズに切り替えて演奏を始める。軍楽隊出身には、シャープ・アンド・フラットの原信夫、ニューハードの宮間利之等のビックバンドのリーダーをはじめ、テナーサックスの尾田悟、トランペットの松本文男、サックスの宮澤昭がいる。

アズマニアン楽団

このグループ(アズマニアン)にはジョージ川口、松本文雄(ミュージックメーカーのリーダー)南里文雄等も参加している。

南里文雄/1910〜1975.64歳没

当時は日本のレコード会社はジャズやポピュラーの輸入盤の発売をGHQより規制され、進駐軍のラジオからのジャズ、ポピュラー・ソングやダンス・ミュージックは聴くことは出来ても、闇取引以外に外国のレコードの入手は困難で、進駐軍のキャンプや許可された劇場以外の場所での外国ポップスを演奏したり、唄う事は禁じられていたのである。

そのようなことで、もっぱら進駐軍の基地の中のクラブでジャズは演奏され、東京、新宿、立川、横浜等、キャンプ地の駅周辺には米軍キャンプの仕事を求めてジャズメンが集合する。

その中には、ジョージ川口(ドラムス)、世良譲(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)、鈴木章治(クラリネット)、笈田敏夫、ペギー葉山、ナンシー梅木、江利ちえみ、雪村いずみ、伊東ゆかり、フランク永井等、皆駐留軍のキャンプ廻りから育ってゆく。

この時期、米国ではビーバップ全盛の時代だが戦争で鎖国をしていた日本には新しいジャズの息吹は入ってきていない。

こうして戦後のジャズ・シーンの幕が開いてゆく。


次回Vol.7に続く。


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