見出し画像

和製ジャズ温故知新.再編Vol.1/二村定一

2012年、半年に渡り日本のジャズ起源を調べるために、『和製ジャズ温故知新』を書いた。それから14年が過ぎ再び昭和の時代を考えている。

というのも、昭和から平成に変わり31年が過ぎ、2019年新しい年号になった。益々昭和が遠くなる今、再び昭和のジャズをもう一度振り返るのも良い気がする。そこで『和製ジャズ温故知新.再編』として考え、そこから、日本におけるポピュラーとジャズの息吹が感じられたらと思う。

第1回は日本ポピュラー(ジャズ)の始まりからである。

*********************************

日本におけるジャズの先駆は、明治四十五年(出港してから、数日後には、七月三十日、 明治天皇が崩御することになり、大正に改元)アメリカ行きの東洋汽船の地洋丸 (グリーン船長)に乗り込んだ五人の青年たちにはじまる。

波多野福太郎、奥山貞吉、 田中平三郎、斉藤左和、高桑慶照、いずれも東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の 卒業生だった。この船出には当時校長であった鈴木米次郎も夏休みを利用して一緒に乗船した。

彼らは、はてしなく広がる太平洋の海原を見てそのかなたにあるジャズの発祥の国に想い をはせ、期待に胸を躍らせた。
『私の青空 二村定一 ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代』

『私の青空、二村定一/ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代より』
東洋音楽学校のメンバー

日本のジャズ黎明期の前、先駆となった人のことを調べている。
調べてみると、1900年代からすでにジャズとは言えないまでも
ポピュラーともジャズとも付かないクラシックの要素が入った
ものがこの時代にある。

上記に出てくる二村定一とは ”My Blue Heven"(私の青い空)で一世を
風靡する人である。上記の明治45年(1912年)というと明治の終わり、
大正に入ろうかという頃である。 この時期から日本にはジャズの芽がある。

二村定一

アメリカのジャズが形作られたのが1890年後半なのでほぼ同時期にジャズの時代が作られていたことになる。これは非常に重要なことで、輸入大国として名を馳せている日本が、上記記述によると逆に向こうに押しかけたともとれる。

この時期を調べると、明治時代俗謡の名称で多くの曲が一般大衆に聞かれている。日本最初の演歌を作る「ノンキ節」の『添田唖蝉坊』はその代表と言える。昭和に入ると昭和歌謡の父『服部良一』が活躍を始める。

1930年前後の話である。
アメリカではこの時期すでにスイングジャズが始まっている。

以下次回Vol.2に。

See You Soon!!


いいなと思ったら応援しよう!