![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/155127926/rectangle_large_type_2_d46b59241eac73d307f3f3c956db0c75.jpeg?width=1200)
旅する人も、迎える人も、幸せになるまち南城チャンネル #15
1968 年創業の農業生産法人株式会社仲善は、創業者の闘病経験から生 まれたクミスクチン茶の販売から仲善はスタートしました。うこん、グァバ、クミスク チンと沖縄の三大薬草といわれる素材を含め、県内の観光施設や 県内外の個人客に向けて販売をしています。2000 年に誕生した「カフェくるくま」は、 くるくま施設で採れるパクチーやレモングラス、バジルなどのハーブを使用した本格タイ料理をはじめ、アジアンハーブメニューが楽しめる絶景カフェです。
今回は、仲善の常務取締役である宮城直樹(みやぎ なおき)さんにご登場いただきます。
ーーそれでは本日ご登場いただきますのはこちらの方でございます。自己紹介からお願いいたします。
「はい農業生産法人株式会社仲善の宮城と申します。よろしくお願いします。」
ーーはい、お願いいたします。宮城さんは仲善の常務取締役。
「そうです。」
ーー経営陣、お忙しい中、ありがとうございます。
すみません。朝から
「ありがとうございます。光栄です。」
ーー勉強会とかにも参加いただいてましてありがとうございます。
仲善さんのお仕事をどんなことをやっているのか教えていただいていいですか。
「仲善はですね。創業して、1968年創業で56年目になるのかな、という会社です。
で、主に沖縄の健康素材ウコン、グアバ、クミスクチンといって3大薬草があるんですけど、その当時から56年前から、そういった素材を本土の方々や県内の方々に粉末だったり粒状だったりというところを提供している会社です。」
ーーなるほどウコンとかグアバとかそうですね。
「言ったら薬草会社というんですかね。」
ーーそれが56年前から南城市に工場があるんですか。
「56年前はそこ那覇にあったり創業当時は、先代の会長の方が本職というか、働いてまして、その傍ら、クミスクチンというお茶で腎臓を患っていたらしく、それがクミスクチンというお茶を紹介されて飲んだら良くなったというのが起業のきっかけで、片手間でやっていたものが、今現在会社として販売をしているというところですね。」
ーーちなみに、従業員の方何名くらいいらっしゃいますか。
「従業員は今60数名ですね。ウコンなどは特徴的でですね。沖縄の素材なんですけど、もう自分が入社して20年くらいかな。その当時、本土の百貨店とかそういったところでしか買えなくて、今現状どうかというと、全国のドラッグストアやコンビニなどでウコンという商品は僕らから商品じゃないんですけどね、並んでいるという状況でいったら、沖縄の中でもウコンという素材一つといっても、産業革命が起きたかなというぐらいの成長をしたかなと、それを先立って皆さんに伝えていけた結果、そういう形になったかな、というのは自負しているという。すごくいい状況になったなと。僕らの商品でいってほしいのはあるんですけど、認知度が上がったと、一般商品になったということはすごく喜ばしいということですね。」
ーー仲善さんの創業者の方が、ウコンというのをいわゆる商材として提供したということですね。
「そうなんです。」
ーーすごいじゃないですか。
「ウコンというのは皆さん知らない方もいるかもしれない。
ショウガ科の仲間で根系なんですよね。
それを最初は那覇の公設市場国際通りだったりで生で売っていて、そこでお客さんの声を聞いて粉末が欲しいというのを。乾燥か、最初はスライスにして乾燥して出して、それから乾燥したスライスのものを粉末にして錠剤ができてお茶パックができたり、ウッチン(ウコン)ドリンクってあるんですよ。
缶コーヒーの小さいサイズぐらいの缶缶で190mlかな、沖縄県内でも当時はどこ行ってもありました。
ーー僕も結構飲む機会が多いもんですから、ウコンの力とか結構飲むんですけど、そういうメーカーさんに材料もご提供なさっているということですか。
「そうですね。原材料も今作っているところに直接ではないんですけど、県内だったりそういった製造をしているところに原料も提供しています。」
ーー農業生産法人としての側面と、もう一つがカフェをやっていらっしゃる。
「そうですね。23年前に縁があって南城市の方に西原から南城市の方に移り住んで
その頃はカフェクルクマっていう店舗の土地ももう更地で、向こうはもう岩だらけなんですよね。それを開拓というか、そこに建ててカフェクルクマは23年前。当時建てたときは何の料理をやろうかというので議論になって沖縄そば屋さんやろうかとか、琉球料理のお店出そうかという話もあったらしいんですけど、それじゃちょっと物足りないと、やっぱりこの沖縄のハーブっていうのはウコンとかグアバとかクミスクチンとか代表的なのがあるんですけど、バジルとかパクチーとかそういった野草、これはもう野草なので、そういったものを多く使った料理をないものかと探したらタイ料理と、そこらはタイの料理人といい出会いもあったというのがあって、タイ料理に決定してですね。当時は本当に失敗したら社員食堂でもやったらいいんじゃないかという話で始まったのがカフェクルクマで、このクルクマって名前もですね、ウコンの学名っていうのはクルクマロンガーって言うんですね。」
ーーそこから取ってらっしゃる。
「そこからカフェクルクマで」
ーー何の意味かなってずっと思ってたんですけど、ウコンから取られてるんですね。
「そうですね。カフェクルクマのカラーもベースは黄色です。ウコンカラーなので、それを使いながら。近年では2、3年前かなキッチンカーっていうのもさせていただいてて、それもカラーは黄色、ベースは黄色ですね。
一番のセールスポイントは、あの景色かな、なんかいい言葉でかっこいい言葉言えばオーシャンビューなんですかね。」
ーーオーシャンビュー、もうもろのオーシャンビューでした。
「それも提供できる。やっぱりこういろいろ縁があって、その向こうに行ったっていう。
やっぱりその20何年前というか、僕も南城市の佐敷出身なんですけど、やっぱり田舎なんでね。
田舎の方に企業が来るっていうのもなかなかないですし、そういった判断をしたその時の会長当時の先代はいい判断だったなって。」
ーーなるほど。ありがとうございます。
宮城さんちなみに、佐敷のご出身で、仲善さんに入社する前は、どんな人生を選んでたんですか。
「どんな人生、どんな人生、まあ、普通に就職して当時はもうバブルの終わりだったんですけど、普通に就職をして5年ぐらい配達とかっていうのをやってて、それから本土の方に行ったりしましたね。」
ーーそうですか。
「一回一回島を出られて東京、横浜か。横浜で3年か4年ぐらい働いて30年前?30年前ぐらい。」
ーー1992年とかそうですね。
「バブルが終わりにかけたところ、ベイブリッジとかレインボーブリッジとかができてていい頃ですかね。
人もいっぱいいて、何かこう自分でもできるんじゃないかと思って行ったんですけど、夢破れ」
ーー横浜暮らしをやめて。
「そうですね。帰ってきて結婚したってのもあったんですけど、それを機に帰ってきて、
それからちょっと点々として仲善さんにお世話になっているという感じですかね。」
ーーそうですか
「いろいろ経験させていただいて、その経験を今の職場で活かせる環境があってですね。
よかったかな。」
ーーでもあれですね。そのまあ、佐敷のご出身で、職場が近所でいいですね。
「そうですね。今すごくいろいろ仕事しながら会う人、会う人、知り合いだったり」
ーーご近所さんですもんね。
「繋がりが多くてでもよく知ってるんで、この辺そうですよね。地元で遊んでたので、なんとなく、小さい頃から見てるものがいっぱいあります。」
ーーなるほどね、ありがとうございます。そんな宮城さんなんですけども、南城の好きなところ。
「南城の好きなところ。南城の好きなところは人がいないところ。」
ーー人がいない。
「車も来ないじゃないですか。スムーズになんでもできそうなところがいいかなと思いますけども、静かなところがいいかなと思います。」
ーー静かなところね。特にクルクマのあたりは夜静かですよね。
「だいぶ真っ暗です。」
ーーそうですよね。
「ライトもないですし」
ーー静かなところ。はい、好きじゃないところを一個挙げていただくと。
「好きじゃないところは学生の頃思ってたこともあるんですけど、田舎なところは好きじゃないかな、と内地に行ったっていうのもやっぱり当時の考え方で人がいるところがいいかな、と。いないっていうのもおかしいですけど、そういうところかなと思いますね。」
ーー賑やかさがないって意味ですか。
「賑やかさがないですね。」
ーーでもさっき、好きなところが静かなところっておっしゃっていたんですか。
「相反しますけど、静かなところもいいし、逆にそういった賑やかじゃないところはどうなのか。祭りが4年に1回だったりするんですよ。
まあ、それはもう他の地域見ればじゃないですけど、1年に1回、あるところでは全島エイサーがあったりとか、そういった大きい祭りがあったりとか。で、そういうのもどんどんやってほしいなって思ってたり、逆にそういう時は賑やかにしてもらって、また逆に静かな差もあってもいいのかなと。
ーーなるほどね。
「わがままですかね。」
ーー10年後の話したいんですけど、10年後、この南城ってどんなまちになっていたいのかを、これは宮城さんの個人的なご意見で結構なんですが。
「僕も学生の頃やっぱり何も考えないで卒業したんで、そういった子どもたちも実際は考えられる環境も作ってあげれたらいいなと思いますので、
例えば地元から働きに出るのはやっぱり那覇だったり、会社が多いところに行くわけで、地元で働けたら一番いいと思うんです。
僕も地元で仲善に働いてますけど、どうなっていったらいいかって言うと、農産物だったり、皆さん農家さんが作ってくれた従事者が作ってくれた皆さんのそういったものを加工してそれを全国に販売するとか、全世界にそういったもので周知してもらってそういったものが直接食べられるよとか、提供サービスができるよっていうような、発展の仕方があって未来が見えてくるのかな、というふうには僕は感じるんですよね。」
ーーこれからここで生きていくお子様たちに、いろんな選択肢があるっていうことを示せるまちだって言う。
「ですね。示していきたいですね。状況的なものも伝えたいし、どう伝えていくかっていうのは、早く知ってほしいっていう部分もあるんですよね。
確かにこの年齢を重ねていって、気づくときが必ずあると思うんですよね、どこかで、こうやったらいいのになぁと思う。いろんな関心が落とし落ちてくると分かり取ってた別の関心が生まれてきたりすることもあるので、そこをどう早く知ってもらうためには、それはやっぱり知恵っていうんですかね。
ある程度の知識っていうのはいろんなものに武器っていうか、やっていく上で自分の力になるものだと思う。
頭がいいとか、そういうことじゃなくて、その世の中どういうふうに動いているのかっていうキャッチできるような人たちが子どもたちも含めて増えてほしい。
ーーなるほどなるほど。そのためにですよ。宮城さんが自分ができることなのか、こんなことをやりたいと思っているとか、その辺はどうですかそうですね。
「僕は今の状況というか、ずっと口に出してある。まだ実現はしていないんですけど、南城市の仲善としてできること。お客さんが集まるっていう施設を持っていったら少し有効に活用できるかなと思っていて、そこで第一次産業を作った基幹作物だったりの価値観を上げてここでしか食べれない、生の青果でもいいですし、野菜でもいいですけど、ここでしか買えないようなものを一局に集めて、そこからはぎれたものとか、そういったもので加工をして加工食料を作るっていう。
仲善施設の中でできるようなことは一応考えてはいたんです。
ーーなるほどなるほど
後半に続きます。