【新・資本主義をチートする・あとがき】 アフターコロナの人類は、狩猟採集民に戻るのか
この世知辛い資本主義社会を、少しでも賢く、かつ苦労なく渡ってゆくためのヒントを集めた連載「資本主義をチートする」と、その続編「新・資本主義をチートする」の2大巨編をいったん完結にしようかな、ということでまとめに入っております。
両編あわせて、合計40記事以上のボリュームとなり、まあ一冊の本くらいには十分できそうな分量がありますが、少しでもみなさまのお役に立てれば幸いです。
さて、連載を開始したのが2020年の3月で、まだ新型コロナの猛威について「何が起きているのか、これから何が起きるのか未知数」という段階でのお話でしたが、あれから数ヶ月が過ぎて、グローバル資本主義や、新自由主義の世界観は「ウィズ・コロナ」「アフターコロナ」ですっかり塗り替えられてしまいました。
その意味では、連載前と、現在以降(あるいは未来)では、資本主義というものの捉え方が多少変化した部分もあるのではないかな?と感じます。
さて、コロナ禍が現代社会において「あぶりだしたもの」の一番のポイントは、何をさておいても
「予測できない、昨年どおりにはいかない、これまでのルーチンが一夜にして崩壊してしまう」
ということだったのではないかと思います。
昨年まであれほど訪れていたインバウンド外国人が誰一人やってこなくなり、飛行機が止まり、会社にも出社しなくなり、誰も外食をしなくなる・・・、といった、去年までのルーチン、常態があっというまに停止したり変化したりしてしまうわけで、これはいわば
「農耕社会とともに発展してきた文化文明の停止」
に似たような状況を引き起こしていると言えるかもしれません。
星の動きをみながら、種をまき、作物を収穫し、貯蔵し、それをこんどは再分配することで、ある一定数以上の人口を維持し、あるいは産み増やしながら発展してきたのが、農耕社会であり文明ですが、そうした回転するルーチン、定期的な活動の先が見えなくなると、狩猟採集的なある意味「場当たり的な」生き方をせざるを得なくなります。
これまでの資本主義であれば、「資本家として独立する」ことは人々の最終目標でしたが、「はて、飲食業をやっていいのか」「はて、航空業をやっていいのか」「はて、みやげ物屋として独立するのはどうなのか」などなど
”どの仕事で独立を果たしても、それが正解かどうかまったくわからない。予測すらできない”
事態が起きているわけで、かといって「雇われ人」のままであっても、その業界があっという間に崩壊してしまったりするのが、今でありこれからなのかと思うと、
「何をどうすればいいのかさっぱりわからず、目の前のエサを探すことに終始する」
なんてことが多くの人の生き方になってしまうという恐ろしさが生まれちゃったということになります。
ものづくりをしていたメーカーの出荷が止まり、「とりあえずマスクでも作ってしのごう」ということで各社がいろいろな機能性マスクを作り始めていますが、それは意図して計画的にやっているものではなく、需要予測と他社比較もぜんぜん無い中での
「狩猟・漁」
をやっているに過ぎません。よくわからないけれど、一枚でも売れたらいいな、という希望的観測の中で、ただでさえ垂れ流れてゆくコストを必死に食い止めているだけなのですから。
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その意味では、農耕的計画社会、ルーチン社会の雲行きが怪しくなり、企業活動においても「狩猟採集社会」がやってきてしまうのが、これからの資本主義ではないかと感じます。
たとえば雇用ひとつにしても、需要やルーチンの売れ行きがまったく読めなくなると、「定数の労働者を抱える」ということが不可能になります。会社からみても
「辞めてもらうか、コスト倒れで倒産するか」
の二者択一ですから、労働環境はどんどんと「不定期の単発人材」が求められるようになるでしょう。
60歳定年までタピオカ屋をやる、ということが不可能なように、「今この瞬間タピオカ屋をやるけれど、近い将来には廃業して、違うことをやる」ということが常態化します。
その「近い将来には違うことをやる」が、何なのかはわかりませんし、何度も言いますが場当たり的になるでしょう。「マスク屋でもするか」と思いつきレベルで思いついてしまう企業だって、たくさん出てきてしまうわけですね。
雇用はすでに「ジョブ型」への移行が進んでいる、なんて言われますが、極論を言えば「この間までインバウンド土産物屋をやっていたけれど、ここしばらくはタピオカ屋をやって、次からはマスク屋をやるぞ」という企業の姿勢が、労働者を振り回しはじめるということです。
土産物ミッション、タピオカミッション、マスクミッションごとに、人材は短期で集められ、また解散してゆくようなことがどんどん起きてゆくと思われるのです。
そうすると、これまでの「サラリーマン人生」や、「私の仕事はなにそれです」という職業による位置づけというものが、さらにさらに怪しくなってくるでしょう。
被雇用者の立場から考えても、「今仕えている会社の業績が明日どうかるかわからない」「売上が大きく変動し自分の立場も読めない」といった不安定な立場の中にあっては、たとえば「副業・兼業」で収入を複数確保するなどの動きは加速すると思われます。
つまり、経済活動全体もそうだし、雇用や仕事も「狩猟採集化してゆく」ということなのです。
「イノシシをおいかけ、魚を釣り、木の実を拾うというスタイル」は、
「会社員としての時間、副業の時間、それとは別になんでも請け負うよ」
みたいな形で、現実化してゆくものと思われます。
その意味では「資本主義をチートする」のシリーズは、「副業を持つ、別の収入を持つ」という部分を重点的に書いてきましたので、みなさまにとっても何がしかのヒントになるでしょう。
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ところで、今回つらつらと書いてきたようなことは、実はこれまでの社会でもバンバン同様のことが起きていて、私達は多少なりともその影響を受けていたのですが、それがこれまでとは大きく違うのは「世界的な同時規模である」ということに他なりません。
昨日までの生活がすっかり奪われたり、定期的ルーチンが崩壊するなんてことは、地震や水害、天災などに見舞われた地域ではみなそうなります。
一瞬にして津波で店が流されたり、農地が潮に使ってダメになったりすることは、これまでも何度もありました。
ただし、それらは常に局地的であり、被災した方々以外から見れば、「他人事」だっというのが実情です。だから、資本主義経済はその地域のことだけを一旦別扱いすれば、全体を修正する必要はなかったというわけです。
ところが、今回のように、どの国においても、どの地域においてもリスクがあるということになると、ごくわずかな地域だけを別扱いにして、そのほかを通常通り回すということができなくなります。
インフルエンザや熱中症で毎年何人死んでいるのか、という事例と単純に比較できないのは、そういう部分です。
そういう意味では、「世界同時に影響がある」という点においては、極論ですが
「小惑星が地球にぶつかる」
とか、
「宇宙人がせめて来る」
とか、そういった規模の災害と等しいという考え方もできますね。
地球の歴史においては、恐竜なんかは世界規模で絶滅したわけですから、こりゃあ、今回のコロナも各国必死にならざるを得ないということかもしれません。
ただ、ひとつ、教訓となる点があるとしたら「災害がやってくるぞ!だから準備をしよう!」ということは経験した人や地域の人は切実に言えますが、これまではその他の人から見れば「はあ、そうですか」というレベルに留まっていたのが、今回のコロナ禍は世界的で同時であるがゆえに
「潜在化していた資本主義社会のリスクを、すべての人が自分のものとして考えざるをえなくなった」
という警鐘にはなったかな、とも感じます。
それはそれで、今後の人類の生き方に生かしていかざるを得ないでしょう。
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さて、いよいよまとめです。これからの社会が狩猟採集社会になるのであれば、「それを知っている者」だけが生き残れることは必至です。農耕社会が続くと思っていたら、今年の秋の収穫はゼロですよとなるわけですから、こりゃあ、一刻も早く野に出て、イノシシでも熊でも狩りにいかねばなりません。
それを知らず田んぼと畑に執着している人達は、収穫時期に放り出されるように唖然とするしかありません。
これは、これまでの労働のあり方を比喩にした寓話ということになりますね。
アフターコロナの世界は、もとには戻らないとされています。とすれば、私達にできることは、一刻も早く「狩猟採集民」としてのトレーニングを積むことに他ならないでしょう。
それはたとえば「起業」ひとつにとっても変化を生じさせます。これまでは
「俺は何屋をやるぞ!そして何者かになるんだ!」
ということを意味しましたが、これからは
「俺は何をやってでも食いつなぐぞ!」
に変わるということです。何者かになるというこだわりを捨てることも、コロナ禍は私達に強いるのです。
そのために、私も今日からさらなる修行を積むことにいたしましょう。
みなさまの明日に幸せがありますように!
(了)