【シン・ウヨク論7】 社長はなぜ偉いのか ~封建社会ニッポンのルールを読む~
吉家さんはその昔ガッコウという場所で仕事をしていました。そう、いわゆる公務員です。公務員の中でもガッコウという場所は
校長・教頭・教諭
という3つしか階級がなく、そしてその階級差をほとんど感じないくらい
校長よりも、そのガッコウに長年居座るベテラン教諭のほうが偉そう
という摩訶不思議な世界で生きていました。
なぜなら校長は3年もすれば転勤してしまい、ベテラン教諭は10年から20年ぐらいそこにいることが多かったからです。
そうでなくても教諭同士の格付けはいちおう平等でしたので、 勤続20年のベテラン担任も初任者の担任も、制度的には同格で仕事ができる摩訶不思議な世界でした。
はてさて、それから数年が過ぎ、今度は民間企業で働き始めて、面白いことに気づきました。
うちの会社は本社の社長がほとんど現場にやってこないというほったらかし、もとい自由闊達な職場なのですが、あるときバッタリ社長に遭遇して「お疲れ様です!」とにこやかに挨拶をして、ふと思ったわけです。
はて、どうして社長たる存在は偉いのだろうか
と。
これまでガッコウに勤めていると、偉いはずの校長が組合に入っている教員にコテンパンにやり込められたりしている姿をみてきたわけで、まあ、ふつうの企業でも組合がうるさい会社だとそういう場面に出くわすこともあるでしょう。
うちの父親は国鉄職員で、○労の書記をしていたこともあるので
労使対等!!!
なんてことをよく言ってました。そうです。社長と社員は対等なのです。きっと。
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ここで本音と建前の話をします。日本人の好きなヤツですね。ホンネとタテマエ。
タテマエ上は、今話したとおり「労使対等」ですから社長と従業員は対等です。
社長が偉いわけではなく、
それぞれ「社長という役割」「社員という役割」「部長という役割」を担っているだけで、その職責(責任度合い)に応じて給料が異なる
、という建前になっています。
ところが、日本人のホンネというか実態は「身分社会で儒教社会」ですから、
立場の上のものが偉くて、下のものが下僕
ということがよく起きます。
純粋な意味での儒教社会なんて実は日本と韓国くらいしか残っていないかもしれません。
■ ヨーロッパは「階級社会」です。上流階級と労働者階級が異なり、住む世界が違うという感じです。それぞれ、出身血統によって世界が異なります。
■ アメリカは「階層社会」です。お金持ちと貧乏人がいます。 出身階級に関わらずお金で決まります。
■ インドは「カースト社会」です。家柄・血筋で決まります。
■ ユダヤ・イスラム社会は、神の前に平等です。(男女は平等ではないけど)
それらに対して、日本と韓国の儒教社会は
「年寄り、先輩が偉い」
「長男や長女が偉い」
「立場が上のものが偉い」
「階層が上のものが偉い」
「下のものは下僕」
という形です。
ヨーロッパやアメリカと比較すると
◆ 出身階級で偉さが決まるわけではない
◆ お金の所有高で、ある程度の階層は区分けされる
◆ 所有高よりも立場が優先される
という特徴もあります。このあたりは日本式独特です。
例) 資産高1億円のニートのドラ息子(父は他界)よりも、正社員が偉い
例) 父親が日雇いでも大企業に勤めている息子のほうが、官僚のニートの息子のよりも偉い
例) ベンチャー企業の社長のほうが、大企業の下っ端より偉い
例) 山田畳店よりも、吉田工務店のほうが偉い 野原設計事務所のほうがさらに偉い
例) もと華族の家柄とか、別にしらんがなそんなん。
例をたくさんつきつめると
◆ 現在の立場・役職という階層
◆ つぎに金銭の所有高
を中心とした身分社会が日本の特徴だとわかります。
このうち立場や役職は、組織内部では絶大な力を発揮しますので、社長と社員とでは大きな権力の差が生まれます。
ところが「組織外部」になると話が変わります。その場合はそのより外側の所属する外枠の枠組みで権力が変わるので、
「ゼネコンの下っ端社員が、下請けの吉田工務店の社長をアゴで使う」
なんてことが起きます。 この場合は、元請下請けの枠組みが組織を形成するわけです。
日本社会では、この「組織・枠組み内部」であるかどうかが重要なので、
「前田花屋の社長」と「吉田工務店の営業マン高橋さん」と「スーパーまつやまのレジ係峰山さん」
がいたとして、レジ打ちの峰山さんの子供が6年生、高橋さんの娘が3年生、前田家の坊主が新一年生だったら
「PTAでは峰山さんが偉そうに廃品回収の段取りを仕切る」
ということが起きます。
あるいはタワマンで何階を買ったかという下克上が起きたりするのも日本らしいですね。
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”ある組織において、上下の立場の身分が偉ぶる者と下僕を生じさせる”
という現象は、実は中国の儒教の影響で、それも徳川幕府と朝鮮王朝によって導入された朱子学の成果で、人工的なものです。
なので、日本と朝鮮にはこの朱子学的身分制度が多々残っています。
ヨーロッパでは、その時の立場ではなく出身家の血統が階級を形成しますし、アメリカではお金持ちがとりあえず勝ちです。
儒学が生まれたはずの中国は、すでに共産主義で塗り替えられています。
そういう意味で、組織における身分制度は日本と韓国だけに残る特殊なものかもしれません。
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話が長くなりましたが、こうした制度は人工的に生まれたものなので、制度が疲弊すると壊れてしまう場合があります。
たとえば、鎌倉幕府は「幕府が領地を御家人に与える」「そのご恩を持って幕府に奉公する」という
ギブ安堵テイク (所領安堵にかけてみた)
だったので、元寇の折に「領地が増えないのに一生懸命モンゴルと戦ったのは意味ないねん!」ということで幕府が倒れる原因になりました。
近年、ボクシングの山根会長やテコンドーの金原会長が糾弾されたように、あるいは吉本興業や関西電力のトップが叩かれたように、
「組織の統制が取れないとすぐ下克上が起きる」
のも、これらの身分制度が「内部反乱」を爆弾のように抱えたシステムであることを示します。
厳密には、組織は上から下へトリクルダウンとしてエサを下ろし続けないと、特に中間段階にいるものが美味しくないので、組織を崩壊に向かわせることになるのですが、それはまた別のお話。
さて、こうしたわけで、名だたる大企業が45歳以上の社員をリストラしはじめたように、組織における身分制度は内部にいるものにとって美味しくないので、そろそろ崩壊の兆しが見えています。
これからどんどん儒教的な身分システムは、機能しない方向へ向かうと予想されます。
そうなると「社長は偉くない」ということが現実に起きてきます。
◆ 資本家は金を出して利益を得る役回り
◆ 社長は事業全体の枠組みを統括する役回り
◆ 上司はセクションにおける分限責任を負う役回り
◆ 社員は実行するだけの役回り
ということがだんだん明らかになってくると、 社員は好きなように職場を選ぶということが起きてきます。
つまり、「自分の労働力と、職場というシステムやツールを使って利益を得る場所」が就職先になるわけですから、
「いいツールとシステムがないのであれば、おさらばである」
ということが社員のベーシックな意識として持ち上がってくるということです。能力の高い社員ほどそう考えますから、
「身分的に、おまえら社員は社長や上司の言う事を聞けばいいんだ」
という社風の会社は、
「自分でモノを考えられない、どんづまりの行くアテのない社員の吹き溜まり」
になってゆくことでしょう。そういう社員は、ツールとシステムについて考える能力がありませんから、黙ってそのままそこにいます。
というわけで、まともな会社ではこれからどんどん「偉い社員」が現れる時代がやってきます。
まるで、中世の封建社会から戦国時代へと変化したように、会社組織も戦国化がはじまるのです。