【新・資本主義をチートする・スペシャル】 元教師がズバリ教える「大学に行くべきか」論の決定版
先日より、3つの記事を通して、「学歴とは何か」、「学歴に価値はあるのか」、「学歴と学力はこれからどうなるのか」という特集を組みました。
まだお読みでない方は、ちらりと目を通しておいてね。
・・・の3本です。んがくっく。
さて、ヨシイエさんは元高校教師なので、教育の重要性とか、大学の大事さなどはある程度理解しているつもりですが、その上で改めて考えてみたいことがあるのです。それが結局、「大学へ行くべきかどうか」という大問題です。
大学へ行くことは、これからの時代「チート術」として通用するのか、それともしないのか。あるいは、大学へ行くことの意味がどうなってゆくのかについて考えます。
さて、数年前に河相我聞さんが、42歳にもなって大学に700万円を払うことに価値があるかについてつぶやいて、それが議論を呼んでいました。
http://www.otousan-diary.com/entry/2018/01/11/113903
この記事の骨子は、ひとつは「大学には多大な学費を投資する価値があるのか」ということ、そして、もう一つは難関な大学からFラン大学まで幅広い大学が存在する中で「価値に見合う大学に入るには、どれだけの時間(等)コストがかかるか」ということでした。
ましてや河相さんは一般の受験生ではなく、当時42歳のおっさんであるため、その労力・コストとリターンについて真剣に考えるにふさわしい状況にある、とも言えるでしょう。
さて、同じような問題提起は、ネット界隈では有名なイケダハヤトさんよってもなされています。
http://blogos.com/article/270110/
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大学に行くということは、実は2つの意味を内包します。ひとつめは、
1) 「大卒」という資格 学士という学業的身分を得ること
です。そして、もうひとつは、
2) より高等(であると思われる)教育内容を享受すること
という意味もあります。 この2つは本来別件なのですが、よく混同されるし、似た意味をもつことが多々あります。
そのため、この2つを巡っていろんな議論が起こることは、まず念頭に置いておいて損はないと思います。
たとえば、「大卒じゃないとダメな仕事や資格がある」なんて話は1に関することです。あるいは、「偏差値の高い大学が就職で優遇される」なんてのは2に関することです。
はたまた、「大卒のほうが給与が高い」なんてのは、1のようでもあり、その理由付けは2に相当する混在した話になります。
しかし、高卒でも稼ぐ人はいるし、技術が高い人はたくさんいるわけですから、2の内容は覆すことができます。ところが、技術が高くても、稼いでいても1は覆せない、という面もあるわけです。
だから話がごっちゃになってきます。
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さて、吉家が大学について感じていることがいくつかあります。これは個人的な視点です。
<1> 大学の教育内容は、ウィキペディアレベルで十分代替できる。
ウィキペディアの内容が正確かどうかはあまり問題ではありません。大学の教授の論説だって同レベルで正確でないこともありますから。
問題はそこではなく、すでに大学で学べる内容と同等のコンテンツは、ネット上にテキストや動画、画像などの形で溢れるほど提供されていることは事実です。
いわゆる学術論文も、ある程度はネット上で対価なく読めますから、大学に通う意味はほとんどありません。
ましてやこれからの時代、オンラインに教材がどんどん上がってゆくことは、想像に難くないでしょう。コロナ禍では「大学の授業すらオンライン」になったのですから。
<2> 知識は、すでにグーグル先生のほうが勝っている。なので知識量ではなく、運用法を学ぶべき。
知識をどれだけ覚えているかという視点では、もはや個人の脳よりもはるかに多くの出来事がネットワーク上に収容されていますから、自由自在に引き出しさえすれば、大学教育として個人個人の脳に収容させることは無意味です。
となると、大学でもし学べることがあるとすれば、「情報の組み立て方」「組み合わせ方」、そして「それらから新しいものを生み出す訓練」以外にありません。つまりは、人類の英知の運用法を学ぶことにだけ、高等教育の意味が生まれてくると言うことです。
知識の記憶はネット上のクラウドに任せておけばいいのです。
<3> 大学の教育内容はプッシュ型であり、自ら学ぶのはデマンド型
しかし、自分で物事を学ぶには、ネット環境はまだまだ散逸的です。大学教育は、テーマごとに「パッケージ化」して情報をプッシュ型で提案してくれる、という意味では有益です。
自分でこのパッケージを組み立て、そして自律的に学ぶのはなかなか難しいことかもしれません。
逆に、有志が大学教育パッケージにまとめたネット上の情報をカテゴライズして与えてくれるなら、大学は本当に不用になるでしょう。
<4> 大学で学べる大きな素養は、リアルな人間関係における身のこなし方。
とすれば、大学で学ぶことができるのは、仮想的でない現実の課題ばかりです。肉体を動かすスポーツや音楽、友達づきあいやゼミやサークルなど組織での動き方、異性との関わりなど、その期間に身につけるべき素養はたくさんあります。
しかし、大学へ行っても部活もせず、友達も恋人もできないままで卒業するなら、全くの無意味でしょう。知識オンリーではほぼ、社会では役立てることができないからです。学位だけが手元に残ります。
<5> 日本の大学は、すでに知恵ではなく「身分」を買いに行く場所。
つまり、大学は「なにがしかの身分」を得に行くためにあります。大卒の資格や、東大卒、早稲田卒といったラベリングによる「学歴身分」の場合もあるでしょう。
逆に言えば、大卒資格が必要な仕事に就かないFラン大学なら、行く意味はありません。
また、大学で買えるのは「身分」だけなので、身分に関係なく起業や投資で食べていける人材にも大学は不要です。
つまり、大学とは「そこで得られる大卒資格や、○○大卒というラベルを使って、会社員や公務員になろう」と思っている人にのみ有効な場所、とうことです。
逆説的ですが、こうしたことを望んでいる人は、たくさんいるため、そのたくさんの人には大学への進学は有効である、とも言えます。
☆例外ながら海外の大学へ行く場合はその意味付けがいろいろ異なります。
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こうした事実が、現実社会で何を引き起こしているかの論考がバズフィードにありました。
■ 「学歴」という最大の分断 ~大卒と高卒で違う世界が見えている~
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/gakureki-bundan?utm_term=.sqVdyvvA1#.ge4XJddxa
今の日本社会の様子がわかりやすくまとめられていますが、「なぜ階層の固定化」が起こるのか、「なぜ学歴の再生産」が起こるのか、はとても簡単なことなのです。
つまり、「大卒はお金で買える身分」だからです。そして、「大卒という身分が、給与や(経済的身分)を引き上げる」からに他なりません。
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さて、これだけ前提条件が出てきた上で、話をまとめます。
700万円(と4年の歳月)もの投資をして、そのリターンが得られるかという大バクチですが、「大卒とは身分である」という話を起点にすれば、おのずと答えは出るでしょう。
これは、「奨学金を借りてまで大学へ行くべきか」という投資課題とも同じテーマです。
河相我聞さんの場合は、その経歴からして、今後「大卒身分」が必要な仕事に就く確率はとても小さいと言えます。
「大卒でなくてもいい仕事」には転職する可能性はあるかもしれませんが、「大卒あるいは有名大ラベル」を使わなくても、生きていけるような気がします。
もし、投資効率を最大にしたいなら「通信制大学へ行って大卒身分だけを得る」のがお勧めです。
逆に「あの○○大を出た!」という仕事上のネタとして使いたい意識を持つなら、せめてMARCHクラスの大学を卒業する必要があるでしょう。地方の国公立大学でも「それ、どこ?」なので、無意味です。
(京大を出てロザン宇治原さんになることは、カブリますから不要です)
奨学金問題も同じです。500万円近い奨学金を借りて大学へ行くわけですから、それなりのリターンのある大学を選ぶべきです。どこでもいいというわけではありません。
どこでもいいのなら、数十万円で通信制大学を選ぶべきだ、というのが答えかもしれません。