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「さよなら絵梨」考察「作品の永続性の功罪と感謝」

マンガ版チェンソーマンを読み終わって他にも色々読み進めていたが、この「さよなら絵梨」は読み終わった途端に「これは…」と思わせてくれるほどの衝撃と発見があったので、今回はその考察を垂れ流そう。

はじめに

本作はセリフで語らない、含みを持たせた演出がとても多く、一つ一つ整理して読み進まないとすぐに頭がこんがらがってしまう。

そこで、この作品の構造を分かりやすくするために
1. ストーリー
2. 仕掛け
3. 意図

といった順にこの物語を階層・レイヤー構造として解析して考察していきたい。

※ここでは読んだ前提で書いているので未読の方はぜひ読んでから。

第1層 学生視点

まず、周りの学生視点から今作の時系列をざっくりまとめると、

  • 優太は、高校1年目の文化祭で「デッドエクスプロージョンマザー」を上映するも胸糞悪い展開だったために周りからは酷評の嵐。

  • その1年後の文化祭で、彼は「さよなら絵梨」を発表すると、前回よりも内容が格段に良くなっていて周りからは称賛の嵐。

  • そして、二つの映画において母と絵梨という人物はとても美しく描かれていた。

事情を知らない学生視点からまとめればこうなるだろう。

次に、ここから階層を一つ堀り下げて優太の視点からストーリーを分析してみる。

第2層 優太視点

  1. 優太は母親に「自分が死ぬまでの間をスマホのカメラで映してほしい。」と頼まれ撮影し続けた。

  2. 優太が編集した映像ではカットされて映っていなかったが、実は母が優太に虐待していたことが分かる。

  3. 優太曰く、母親には殆ど相手にされておらず、映像に映るような優しい母親ではなかったようだ。

そして映画のラストで件の爆破映像を入れ、教師との会話でも

「...…最高だったでしょ?」

と発言したことから、ストーリー序盤の優太は母親をせめて映像の中だけは美しく残しつつも、最後の爆破によって復讐成し遂げたかったのかもしれない。

だが、この家族の背景を知らない学生達からすれば優太のラストの演出は突飛かつ説明がないので、不謹慎だとして反発するのも至極当然の反応に見える。

故に、優太はその後の自撮りビデオにおいて「それくらいで死ぬの?って思いますか?そう思っているのなら皆さんも死んだ方がいいです」と毒付く。

これは自分を理解しない他者と虐待を振るう母親を並べて「死んだ方がいい」と思ったのだろう。

だが、周りが無神経なのは事情を説明しない自分のせいなので、優太はそんな独りよがりな自分自身にも絶望している。

そうして周りと自分に絶望した優太は、母がいた病院の屋上にて飛び降りようとしたところで絵梨と出会い、廃墟にて映画を一緒に見ながら来年の文化祭でのリベンジを果たす目標を立てて、絵梨と共に映画製作の特訓をする。

ただ、その特訓の中で優太が書いたヒロインが衰弱していくプロット・設定に沿うように絵梨は次第に衰弱していく。

しかし、その中でも優太は絵梨を取り続け、看取るシーンをラストに「さよなら絵梨」は完成、優太は見事に文化祭でリベンジを果たした。

その後、優太の人生は多少の浮き沈みはありつつもそれほど大きな波立ちもなく、就職、結婚、出産を経て、最終的には至って平凡な生活という、ある種幸福なところに落ち着くこととなった。

そうした日々の中で、映画を作っていった中で優太が感じた「ちゃんと生きようと、また映画を作る自信を貰える」という気付き・思いは、日常の平凡さと絵梨の動画の再編集に囚われていき、いつしか歪なものへと変質していった。

そんな折に、優太は不慮の事故に遭って家族を失い、最後に平凡な人生すらも失う。

そうして、母の死、絵梨の死、家族の死と、取り残される続ける人生に耐えきれなくなった優太は、絵梨と映画を見ていたあの廃墟で荒縄による最後を実行しようとする。

するとそこには死んだはずの絵梨がいた。

そして絵里は優太に死亡以前、優太が語っていたデタラメな設定で今も生きながらえていることを告げる。

しかし、今の絵梨は今までの記憶の殆どを失っていて、唯一の記憶・記録は、優太が残した「さよなら絵梨」だけとなっている。

ただ、「さよなら絵梨」には絵梨の美しいところだけしかないので、以前の彼女のすぐにキレるところや、自己中心的なところは省かれてしまっている。

そんな理想のみが残ったビデオを見て自分を学習した彼女は、優太が知っていたあの時の絵梨と果たして同じなのだろうか?

それ故に、優太は絵梨に誘われても昔のように映画を見ようとはせず、絵梨に別れを告げて部屋を後にする。

そうして、優太が探し続けていたこの物語の終わりとして、絵梨の「ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?」という言葉を思い出すと、絵梨がいた廃墟が爆破され、優太は晴れ晴れとした顔で外へと歩いていくのであった。

と、一通りこの作品を振り返ってみたが、この話の中には辻褄が合わない・違和感が残る部分が多々あった。

次の階層ではその違和感を妄想というテーマで掘り下げていきたい。

第3層 妄想

まず、自分が感じた違和感として

  1. 単行本124ページ2コマ目において優太は車から出てこないとあるが、16ページでは外に出ている

  2. 167ページ2コマ目「絵梨の動画を何度も何度も編集した」の日付が、12ページ1コマ目「撮影したデータが40時間を超えました」に映る母親の映像のデータの日付と一致している

がある。そして一番分かりやすい違和感・演出はラストの爆発。

「デッドエクスプロージョンマザー」では特殊効果・演出として使用されたが、絵梨は53ページ2コマ目で「どこまでが事実か創作かわからない所」も良い混乱だったと評している。

つまり、読者がここまで読んできた優太の物語もまた、創作の中の”漫画”という枠の中では「どこまでが事実か創作かわからない」ことを爆発により提示していると思われる。

そうして、これらの違和感からどこまでが現実で妄想なのだろうかとをアレコレ考えているとある一つの結論に至った。それは、

「デッドエクスプロージョンマザー」の上映後、31ページ3コマ目以降から全てが妄想だった

つまり、「さよなら絵梨」を上映したこと、絵梨との友達とされるカチューシャの女の子、父親が語る母親の虐待、そして絵梨の存在も。

その全てが優太の妄想だったのではないか。

ただ、いきなりこの結論に至ったわけではなく、本作に散りばめられた端緒の綻びから何とか繋がりを無理くり辿っていった結果こうなると思ったので、次にそれを整理していこうと思う。

  1. 母と絵梨

まず、一つ目の違和感はP161の2コマ目(母が振り向く)。

似たコマ(P13の3コマ目)では、母は振り向いていない。

P161付近の話の繋がりで考えるなら、1コマ目の校舎の次は絵梨のカットが来るはずだが、ここで何故か母親の振り向きが映る。

P166、そのまま画面は暗転し、優太の独白。

「それは映画の中にいる僕のことで 現実の僕はそういかなかった」

「文化祭の後は学校へ行かず部屋に引きこもるようになった」

ここまでの話の流れだと文化祭リベンジの高校2年のことかと思ったが、P166の1コマ目に映るのは中学時代の優太(P12の2コマ目)である。

そして、P167の2コマ目の日付。これは優太が中学時代の日付なので、絵梨の映画であるならば日付やタイトルもそれに合ったものが選ばれ、コマに描かれるのが自然なはず。

では、このコマは作者のミスなのだろうか?P12の1コマ目よりもアップにしていて、周りの校正も込みで、修正もなしに残されていたとされるなら、そこには何らかの意図があるように思える。

そうしてこの中学時代が強調されていることを紐解いていくと、この一連の独白において優太が”事実”として通った経歴(妄想抜き)としては

  1. 中学時代、母を病気で失う

  2. 高校1年、「デッドエクスプロージョンマザー」公開後、引きこもりに

  3. 大学に行くも中退して会社に就職

  4. そこで結婚して娘ができる

  5. そして事故に遭い家族を失う

になると思う。

つまり、P166の1コマ目の「それは映画の中にいる僕の事」とは、「高校1年で失敗してから2年目にリベンジを果たした」31ページ3コマ目から始まって、リベンジを果たしたP155までのストーリーそのものを指しているとも取れると思う。

ではもう一つ、先ほど省いた妄想のラインから、優太がどう過ごしたかまとめると

  1. 母親の死を受け入れられなかった。動画に撮ることが出来なかった。ゆえに優太は爆破オチで終わらすことしかできなかった。

  2. しかし、事情を知らない人たちにそのことを否定され、飛び降りを決意して実行しようとするとストッパーとして絵梨が現れた。

  3. ストッパーとしての絵梨と日々を過ごし、絶望を回避するための希望を絵里に見出した優太は、絵梨を撮り続け彼女の最後を看取ったことにすることで、母親の死を受け入れられたと思った。

  4. そうして、「さよなら絵梨」を完成させ文化祭リベンジを果たしたが、相変わらず優太は母親の動画に絵梨を被せて再編集し続け、結局母親の死に囚われ続けていた。

  5. その中で再び家族を失ったことで、背負いきれる辛さの量を超えて途方に暮れたので、最終的に廃墟に向かってそこで自身の終わりを迎えようとする。

となる。ただそうなると

  • 絵梨が友達と言っていたカチューシャの女の子

  • 絵梨と話していた父

  • その父が話した母親の真相

この要素はどうなるのか。と考えてみたが、そもそもこれらの要素ですらも妄想だったらどうだろうと仮定すると、優太が母親の最後を撮れなかったことに合点がいくのではないかと考えた。

まず、優太は悲しさのあまり母親の最後を撮れなかったが、その後の映画では母親を病院ごと爆破させることで何とか映画を完結させられた。

そうして先生に詰められた際には「...…最高でしょ?」とつぶやいた。

第2層においてそれは母親の虐待への反抗だと考えたが、その母親の最後とれされるあたりをよくよく見ると、違和感のある個所が多いことに気づく。

その個所を挙げると、

  • 母親の髪型が説明なく変わっている

  • 序盤のページで優太は車から飛び出したのに、後の父親が撮った映像では「クルマから出てこない」という事実のズレ

  • P5の4コマ目の父の表情

一つ目の髪型は、序盤ページでは後ろで結っていたが、最後の方になると序盤より明らかに短くなっていた。闘病で髪が抜け落ちたのとも違うように見える。何故死ぬ間際になって急に短髪にしたのか?テレビマンとして見栄えを気にする母が死に際に切る必要があったのか?

また、車から出てこなかったことに対して、P17では一旦出た上で病院の入り口で逆走しているが、P124では車から出てこないことになっている。

P17で走った後に車に一人戻って 、後から来たお父さんにカメラを渡したとしても、P124ではそんな一悶着があったような雰囲気を感じさせることなく撮影が進行している。

そして、P5では動画撮影を母と優太の間での約束というふうに描かれているが、4コマ目で父の表情はあっけにとられ初耳といった感じに描かれているが、P128では「優太に動画撮らせてたんだ」と予め知っていて父がそういう風に誘導したという風に、事実の細部に若干の齟齬がある。

つまり、優太が母の死を受け入れるための答えの探求・妄想をしていく過程の中で、自死へのストッパーとして絵梨が登場、設定を煮詰めていく中で「実は母に虐待されていて、その憂さ晴らしで最後に爆発させた」と優太は結論付けたかったのでは、と思う。

最初は自分でもなぜ爆発させたか分からなかった。そしてそれを周りに咎められたことで、余計に自分の中でコンプレックスになっていったのだろう。

そうして理由を探していく中で、父との問答や絵梨とのプロット探求を妄想で作り出していったのではと思う。

(P70からのお互いの癖を言い合ったり、P155で絵梨の癖を持ってくるところも実に妄想っぽい感じがする。)

そして一番印象的なのは、カチューシャの女の子が出てくるタイミングである。彼女は

  • 周りに酷評されてからのP32目

  • 「さよなら絵梨」上映後のP158目

この2シーン、絵梨が登場してから居なくなるまでの前後にのみ登場する。

最初の登場時は周りの意見がだいたい出尽くしたところで、手ブレ交じりの演出により登場する。

この作品を通して使われる手振れ演出だが、現れる箇所を追っていくうちに、この演出はおそらく現実から妄想へと切り替わる合図として機能しているのではないかと思った。

それは大人になった優太のP170の3コマ目のセリフ

「高校生の時にこうして自殺を考えていた時もそう カメラの前でしか現実を見ることが出来なかった」

からも読み取れる。

つまり、カメラの前で撮られているときにだけ現実が見え、優太がカメラを向けているときは現実が見えない(妄想の世界が見える)と言えるだろう。

だから、優太が最初の自撮り以外のコマに現れる(絵梨と並んで映画を見るコマなど)場面では手ブレが起きない。

とすると、この1,2コマ手ブレしてから会話に入るのは妄想で作り上げられたものだと考えられる。

故に、P30-31で心底軽蔑した感じの意見が並んだ後に、手ブレ演出から今まで違った雰囲気のふざけた感じの連中やメガネ男子が登場してからカチューシャの女の子の登場に繋がったのではないだろうか。

そうして、彼女にその場に置いて一番もっともらしい「私もお母さん死んだの」、「貴方が許せない」といった正論な意見を言わせて「どうして最後爆発させたの?」と自分でも分らない問を投げかけさせたのではと思う。

そうして、自撮りで感情を吐露して屋上まで行くと、それまでの自己否定の反動として、絵梨が登場し、その時の優太が一番言ってほしかったことを言ってもらったのだろう。

そうして答えを探してゆき、一応の答えとしてのリベンジを果たしたところで、最後の締めといわんばかりにカチューシャの女の子が現れる。

そこでの彼女は最初のころの冷たい感じとは打って変わって感謝の言葉を投げかける。

恐らく優太としては、この感謝によって自分が救われるはずだったのだろう。ただ、そこで浮かんできたのは絵梨ではなく母の薄ぼやけた顔であり、結局のところ平凡な人生という名の闇だけが広がっていたのだろう。

こうして、全てが妄想だらけであった優太は、相も変わらない平凡な日常のスキマの中でなお、その満たされない答えを探し続けたのだろう。

しかし、その間に再び家族を失い、結局何も問題を解決できなかった優太にとっては負担が何倍にも圧し掛かったと思われる。

そうして、妄想だらけであった日常を終わらそうとして、自身の妄想の始まりであった廃病院に向かったのかもしれない。

第3.5層 疑念

と、ここで母親の短髪や細かな事実の差異(車・撮影について)の整合性を考えていくと逆に、あの短髪の母親が出るシーンこそが実際の現実を描いていて、それ以外で映る母親が妄想だと考えると色々しっくりくるところがあった。

つまり順番としては、一番始めに、優太は父親から例の短髪の母親の映像を見せられ、映像越しに母親から最後イヤなことを言われる。

この映像以外が妄想で、虐待もなかったとするならば、死に際の母の一言が、優太にとっては今までの親子の関係をひっくり返すよう衝撃になったのかもしれない。

ゆえに、その疑念を払しょくする何かつじつまの合う話を作り上げていったのかもしれない。

そうして一番最初からイメージを書き換えて(文字通り母親のビジュアルから変えて)見せられていたのが、あの冒頭P1のシーンなのではないだろうか。

だが、一度は作り上げた理想の母親像でもってしても最後の一言を覆せるシーンが頭の中に無かった、あるいはその時一番最高だと思った爆発シーンは酷評され(あるいは無意識の内に自分でも納得していなかった)、新たな理想像あるいは答えを探そうとしたのかもしれない。

そうした中で出てきた答えが、同年代の異性による肯定と欠けていた最後を看取るという行為なのかもしれない。

つまり、母親による否定はどうあがていも覆せないので、それならば関係性も年齢も違う人によって肯定されることで、それが覆ると考えて絵梨を生み出したのかもしれない。

だが、そうして自分を肯定しようとすればするほど否定も強くなっていったのだろう、そこで父親からの回想もとい優太の妄想から、自分は実は母親から虐待されていたという答えを持ってきたのかもしれない。

そうして最後を看取り、あのときの母親の一言に答えを得たつもりの優太は「さよなら絵梨」を完成させたはずだった。

だが実際には、カチューシャの女の子に感謝された後のコマで、理想の母親が1コマ写ってから、真っ黒の画面へと暗転する。

(このカチューシャの女の子が実際の絵梨を語るシーンと、父親が実際の母親を語るシーンは韻を踏む構成となっていて、ここでも妄想の上書きが行われているが、そうしても現実に打ち当たるからこそ最後に暗転するのだろう)

そこからの独白からもわかる通り、たとえそのとき答えが出だとしても想像の解像度が上がるだけで、自分の中で確信に至る何かがないから、またフィルムを再編集し続けて答えを探すことを止めなかったのだろう。

(母親を撮っていたころの動画の日付けが写るコマの吹き出しで「絵梨の映像を編集し続けている」とあることからも、また別の理想像を重ねてストーリーを構築していたのかもしれない。}

ただ、そうした歪な日々はやがて現実に起こる不幸によって、更なる現実を突きつけられて耐えられなくなったのか。あるいは、事故のショックでハッと正気に戻ったものの、今更ながらこの歪さに戻ることは耐えられなかったのだろう。

そうして、答えのない理想を追い求め続けた日常を終わらそうとして、自身の妄想の始まりであった廃病院に向かっていったのかもしれない。

第4層 解放

だがそこでは、自分が設定を固めていったことで死なせてしまったはずの絵梨が、あの頃のままで「さよなら絵梨」を見ている。

そう、自分が死を受け入れるために生み出し、死なせた彼女はこの始まりの場所で未だにそのままなのである。

そうして彼女は優太が適当に語った設定通りに生き永らえている(ゆえにP184のコマが切なく辛く感じる…)。

ただ、絵梨は蘇る際に記憶を失うというが、そもそも一番最初から記憶らしきものはなかったのかもしれない(優太の妄想であるから)。

そうして優太の前に現れた際に吸血鬼やら再生やらと何やら新しい設定をこれでもかと引っ提げて登場するが、前の性格・記憶・設定は失われており、今では絵梨の純粋な美しさだけが残っている。

そして優太は、二人で初めて映画を見たあの頃と同じことを繰り返そうとする絵梨に、自分が家族に取り残され続けることへの苦しみを重ね、彼女に

「そんな人生に絶望しないのか?」

と問い詰める。

それは初めて絵梨に会ったときから、ずっと見つけたかった母の死についての蟠り、自分に投げ掛けてきたことと同じ問いだったのかもしれない。

それに対し絵梨は

「前の絵梨はきっと絶望していたと思う… でも大丈夫 私にはこの映画があるから」

「見るたびに貴方に会える… 私が何度あなたを忘れても 何度でも思い出す」

「それって素敵なことじゃない?」

と答える。

この「見るたびに貴方に会える… 何度でも思い出す」は、まさしく優太が映像を再編集して理想の答えを探し続けたことに重なるように思える。

つまり、自分の妄想の中の絵梨はそれで十分なのである。なぜなら自分が救われるために用意した人物なのだから。それはある種、カセットテープというか、あるところまで再生したらまた巻き戻して一から再生する感じの。創作物だからこそ起承転結があることで、それで十分なのである。

ただ、優太はこの現実・事実を生きているわけで、何もそれでは解決せず、絶えず映像をいじり続ける歪な日常を生きることとなった。

故に、優太は絵梨の発言に対して言葉では「素敵な事だ...」と言いつつ、行動では部屋から外に出ようとして拒否の姿勢を示す。絵梨は一瞬笑顔になり、いつも通りの自己中な物言いで席に着くように促すが、それに乗らない優太につまらなさそうな表情を浮かべる。

いつも通りに振舞う絵梨に、前に進もうとする優太。

「さよなら…」

そうして優太はこの虚構と現実が入り混じる世界に別れを告げ新たな世界へ向かうかのように、思い出の場所を爆発させて「さよなら絵梨」は完結する。

それは、今まで自分を妄想の中で支えてきてくれた彼女への感謝というか、手向けのようにも思える。今までありがとうというような。

自分の人生の中の絶望を背負いきれなくて、押し潰されそうな中で自分を守るための絵梨。

妄想の中で、そんな彼女を看取ることで解決できそうな気がしたのに、ずっとそんな彼女に囚われてしまっていた。ある種、彼女が現れなければ別の道もあったかもしれない。

ただ、それでもこれまでの自分を生かしていたのも彼女だったのだ。そうして再び訪れた絶望の中で彼女を見つけ再び命を救われ、そしてまた自分を救う役割を背負う彼女への感謝や解放を込めての爆破だったのだと思われる。

第5層 作品

故に、この作品の最後の階層には

コンテンツの永続性、その功罪と感謝

が詰め込まれているような気がする。

人には寿命があるが、作品は触れる人がいる限り存在し続ける。

そしてそれはいつまでも美しくあり続ける。

その永続性は人にあらゆる感情を想起させ人の生活を豊かにする。だが、その美しさゆえにそれに囚われてしまうこともある。

その中には、自分の中で不可解に残る否定の感情もあったりする。

そこで、何かストーリーを作ってつじつまを合わせたり別の理想像からの肯定を得ることでそういった感情を一時的に抑えらえるが、その埋め合わせのループから抜けるには、自身がそれによって救われてきたことを自覚し感謝(あるいはこの話の中だと、絵梨からは何度でも会えることは素敵と感謝に近い肯定をしてくれる、妄想の中なんだけどその枠を超えた実感のあるもの)して一歩踏み出すことがここでの求め続けた答えだったのだろう。

いつか自分がそのコンテンツに触れなくなるときが来るとき、必要ではなくなったとき、肯定されたとき、感謝を込めて歩き出す。

それこそがP29の3コマ目の

「ラストなんで爆発させた?」

に対する

「...…最高だったでしょ?」

の答えなのかもしれない。




余談

この記事を書くにあたって、この曲をリピートして聴いていたら、歌詞がなんだかシンクロしているような気がした。曲を聴きながら「さよなら絵梨」を読み返すと、より美しく切なく感じ、そして勇気づけられるような気がした。

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