言葉あれこれ#18 ことわざ
座右の銘を聞かれると、多くの人がことわざや故事成語、四字熟語などをあげる。
印象に残っている座右の銘としては、iPS細胞でノーベル賞を受賞した時に山中伸弥氏があげた故事成語、
がある。
これは物事に一喜一憂せずに心を中庸に保つことの大切さを教えてくれる、中国の故事だ。
中国の北に住む塞翁の馬は逃げたが、その馬は牝馬を連れて帰ってきた。息子がその馬から落馬して怪我をしたが、そのせいで兵役に行かずに済んだ。村で命拾いした若者は、塞翁の息子だけだった。それさえも、塞翁は喜びも悲しみもせず、あるがままに受け止めるだけだった。
元ネタは中国古典『淮南子』。
そういえば昔の東京都知事青島幸男が『人間万事塞翁が丙午』という本を書いていた。直木賞かなにかを獲ったのではなかっただろうか。
#なんのはなしですか
似た故事に、
がある。
四字熟語では「禍福糾纆」になる。『史記/南越伝』由来らしい。南越といったらベトナムじゃないか。北から南から、同じような格言やことわざがあるというのは面白い。
さらに似たようなことは、荒木飛呂彦先生も言っている。ジョジョ第六部の『——「ストーンオーシャン」のはじまりに……』でこんな箇所があった。
時代を超え、偉い人が皆口を揃えてそう言うのだから、ひとつの真実であろう。人生は一筋縄ではいかないし、いいことも悪いこともある。いいことばかりでもないし、悪いことばかりでもない。それは「季節」のようなもので、季節が廻ればまた違う風が吹く。気持ちの波もあろうし人智の及ばぬ采配もあるだろう。何が「いい」ことなのか、何が「幸福」で何が「不幸」なのか。簡単に決めつけることはできないのである。
そう。だから私も常々、できるだけそう思うように心がけている。
―――いるのだが、ひとつだけ、心が揺れてしまうことがある。
子供のことだ。子供のことが心配でない親は居ないだろう。心配なんかしていないという親は子を信頼しているのだろうけれど、真に子供がどうでもいいというならそれは血肉の繋がりはあっても親ではない。親には「なる」ものだ。「be」ではなく「become」だ。自然に発生するものではない。
親となった限りは命尽きるまで子供の心配はする。し続ける。
親が心配している、ということと、親の心配をどのように子に伝えるかというのはまた別の問題だ。内心は心配と不安でいっぱいでも、子の失敗を大きな体験と捉えて黙って見守る親もいれば、自分の不安をぶつけてしまうばかりの親もいるだろう。
私は長いこと、後者だった。
この人生で痛烈に学んだ、そして現在進行形で学んでいることのひとつが、下のことわざに凝縮されている。
イギリスのことわざだそうである。
このことわざに出てくる「馬」が人間以外の生き物であることと、この馬が「him」であることが気にはなるが、まあいい。
我ながら、いろんな水場に連れて行った、と思う。
思いつく限りの手を尽くして、飲ませようとした、と思う。
飲むもんじゃない。
どれほど苛立ち、大声を上げたり、耳の横で手を叩いてみたり、馬の周りで滑稽な踊りを踊って鼓舞したり、叱責したり宥めすかしたりしたことだろう。馬のお尻だけではなく、大枚も叩いた。
しかし、やはり飲ませることはできない。
馬に言葉は通じない。
馬は好きな時に水を飲む。
飲みたくなければ飲まない。
ただじっと、飲むのを待っているだけしか、できないのだ。
人は言う。
――なんじゃないか、と。
そうかな、なんて馬が8歳くらいまでは思っていた。
今その言葉は、現在のところ「言われたくないひとこと」ナンバー1に輝いている。
大器晩成というのは、やはりある時に自らを省みて瞠目し、コツコツ努力を始めた人が人より少し遅く開花する、ということであって、何にもやらずにゲームするか寝てばかりいる人——じゃなかった馬が、為せることはなにもない。
これも良く言われた。
これは「ことわざ」なんじゃないのか?
そう勘違いするくらい言われた。
やる気スイッチが、そもそも存在すると仮定しての話である。
やる気スイッチなどない。馬は別に水を飲むぞ!とやる気を起こすから水をのむのではない。喉が渇いたら飲む。必要を感じるから飲む。
というが、どんなに目を擦って良く見ても、変わるものではなかった。馬は馬のままであった。彼は眼前で、優雅に尻尾を振りながらのほほんと草原の泉のほとりにたたずんでいるだけで、そこにはなんら変わらない風が吹いているだけなのだった。
現在は、
の心持である。
どんなことがあっても、凪のようなアルカイックスマイルで息子馬の選択を受け止めよう、そして「人間万事塞翁が馬」と、心得るように鋭意努力するのだ。
馬だけにな。
塞翁の馬は逃げたが牝馬を連れて帰ってきた。怠け者の代名詞である『三年寝太郎』もある日突然やおら起き出して、千石船に大金を積んで帰ってきたり、巨石を動かして村の危機を救ったりする。
うちの馬はもう五年ほど寝ている気がするが気のせいかもしれない。そろそろ、いつか、きっと、必ず、ほい、今じゃないの、ほらほら、と思いながらここまで来た。この沈黙の時間が、ただ人から後れを取っただけではなく、なにか違うベクトルのエネルギーを蓄積しているのかもしれないと、信じたい気持ちが確かにある。そうであってほしいと願ってしまう。
今朝、朝ドラを観ていたら、冒頭が主人公寅子の娘の進路問題だった。
娘の優未が大学院まで行って8年続けた研究を辞めるという。育ての親である航一は「これまでの研究が無駄になる」と反対し、実母の寅子は「人生に無駄などない」と反論する。
そして寅子は娘に「あなたが進む道は地獄かもしれない。それでも、進む覚悟はあるのね」と問いかけていた。寅子が法曹の道を選ぶ時に彼女の母から言われた言葉そのままだ。
寅子の実母の言葉には「社会に出て行こうとする女の道は」という言葉が隠されているのかもしれないが、これまでやってきたことから離脱するにしても、結局のところ、予想もできない未来に向かって何をどう進んでもこの世は地獄には違いない。それは男も女も同じ。ひとつの地獄のから逃げたところでその先にあるのはまた地獄。その地獄を天国と思うか地獄と思うかも、また時間が経って、そのときの自分や状況をどう思うかも、わからない。そしてトータルしてそれがいいことなのか悪いことなのかも、決めることはできない。
ところで『虎に翼』は「鬼に金棒」と同じ意味のことわざ。
慣用句・ことわざ・故事成語などは、生きる上で学びを深くしてくれる。
うちの馬がどんな選択をしようとも、どちらだって同じ地獄と思えば覚悟ができる。
「覚悟はあるか」と問われたら、ちゃんと答えられる自分でいたい。
いや、別に誰も問わないと思うが。
人生はことわざでできている。