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言葉あれこれ #9 属性

 自己紹介やプロフィール欄には、名前の他に血液型や生年月日、星座などの情報が書いてあることがある。なぜ書くか、というと、その情報によって自分の属しているものを端的に示せるからだ。
 同じ血液型に親近感を抱く人もいるだろうし、諸説功罪はあるが血液型占いを知っている世代なら、A型とあれば真面目なのかなと思ったりする。生年月日や星座からは、同年代だなとか、牡羊座だからアイコンも羊なのかなとか、そういうことを考えたりも、する。
 そういう情報を選んで載せる、ということは、基本的には書いた人がその情報を自らを表すもののひとつとして、大事にしているからだろう。

 占いや血液型などに、私たちはシンボリックなイメージを喚起される。牡羊座の性格の特徴を知っている人に対しては、「行動力があってポジティブな」ということを、「牡羊座」で表すことができる。A型のもつイメージで、「日本人の多数派」「真面目」などと言うイメージを伝えられたりもする。
 そもそも人には「どこかに所属して身のおきどころを定めたい欲求」というのがどこかにある気がする。それはつまるところ「属性」を求める気持ちなのかな、と思う。もちろん、それらの情報がどうでもいい人には響かない情報ではある。そして「響かない人」というのもまたひとつの属性というものだろう。

 先月まで放送されていた『不適切にもほどがある!』というドラマは、昭和から令和にタイムスリップした中年男性を中心としたホームドラマだった。時代による考え方や常識のギャップが騒動を巻き起こすコメディだったが、多分に風刺的でもあり、クドカン(脚本家の宮藤官九郎さん)にしては珍しく啓蒙的でもあった。

 第9回のサブタイトルは『分類しなきゃダメですか?』。ドラマの中でマッチングアプリの「属性」と言う言葉が、妙に印象に残った。
 自分が「どこに属しているか」が明確でないと、マッチングはできない。それはひたすら自分と、または自分の好みと「似たもの」を追求していくということ。つかみどころがない人、という属性は、マッチングには向かない。

 昔のRPGロールプレイングゲームでは、最初に世界を構築するときや主人公を決める際、「光(秩序)」「闇(カオス)」「善」「悪」などの属性を選んだものだった。かつて私がハマった『ルナティックドーン』というRPGでは自分のキャラクターがゲームの中で結婚したり離婚したりできたのだが、属性の違う人にはいくらプロポーズしても断られ続けた。中にはあからさまに「あなたとは住む世界が違うの」とか「年が違いすぎる」と言ってくるNPC(※PCの中に最初からいるキャラクター)もいた。
 「光+善」キャラでプレイしていた時、「闇+悪」属性の男性とチームを組んで、うっかり彼に惚れてしまったことがある。レアで高価な武器をプレゼントをしまくったり、暗殺などを請け負い悪のミッションをこなすなどして属性をその人に近づけてやっと結婚した。が、ある日突然「お前とはムリだ」と去っていかれた。子供もいるのに、なんで・・・と、しばし茫然としたものだ。

 ところでそのゲームは、子供を新たに自分のキャラクターにして世界を引き継ぐことができた。
 ある時、父親らしき男が、闇+悪属性の女性とチームを組んで盗賊をしているのを見つけた。相変わらず特級呪物のようなレベルの高い妖刀を使いこなしている。(母親キャラ時代の)私があげたものだ。ムキィィィ。キャラデータを見ると闇の彼女との間に子供までいる。ゲームだというのにあのときは無性に腹が立って、彼らの案件を邪魔しようとしたら、返り討ちにあってやられた(ちなみに別のパーティーに襲いかかってレアな武器を奪うと、それを自分のものにすることができる。もちろん卑怯な手口なのでものすごく評判が下がり、他人の恨みを買い、暗殺対象になったりしていた。まあなんというか、良くできたゲームだった)。
 いまわの際にひとこと、お父さん!僕だよ、ルーク(仮)だよ!と言いたかった。そう言えば母親キャラ時代、メチャクチャ強いから彼に惚れたんだったな。そんなことを、ゲームオーバーの音楽を聞きながら思い出していた―――

 なんのはなしですか。

 確かに人は自分と似たものを好む傾向がある。趣味や嗜好が違うと話が嚙み合わないし、不愉快なことも多いので、属性の違う相手と付き合うのは避けたい傾向が強いと思われる。私も先だってから本や文章の好きな人と話すことが増え、それがこれほど心地よいとは、と思う体験をした。そういう側面は確かにあると思う。

 がしかし生物としての人間は自分とよく似たDNAを嫌う傾向が強いらしい。遺伝子の近似は多様性を奪い、環境に適応していく力を失うことと直結しているからだ。諸説あるが、頭で考えることではなく「におい」などの五感で判断しているとも言われ、本能的に、動物の直感で、近似性を排除しているのだとか。

 ということは、パートナーを選ぶ時、人間はDNAとしては遠い存在で、かつ、趣味や嗜好の似ている人物を選ばなければならない、ということになる。どれほど趣味が似通っていていても、本能的に何かがだめ、ということは大いにあり得ることだろう。

 就職や伴侶を決めるときなど、人が人を分類し選別する場面と言うのがこの世にはあって、その時は何かを基準にしなければいけない。そういう時に「属性」は大事な要素ではあるのだろうが、ただそれを職業選択の決め手に使ったり、雇う側が使ったり、背景も知らずに鵜呑みにしたり、盾にしたり、武器にしたりというのはどうかなと思う。
 マッチングアプリや占いの「属性」に頼り切るのは、傷つきたくないが故の「盾」かもしれないし、それによって相手をジャッジするのは「武器」なのかもしれない。何であれ少なくとも、そこに頼りきりになったり依存するのは良くなさそうだと思う。なによりも、SNSという媒体においての「属性」は、詐称が可能な領域だ。

 SNS はいくらでも「像」を作り出すことのできる世界だ。そういった「属性」によって「なりすまし」たり、自己を別のイメージで装うことができる。トラブルがないわけがないだろうと思う。

 しかし考え方次第では、それを逆手にとって役に立ちそうなことがある。
 自分にとって好ましくない相手のことに囚われてしまった時、嫌いなわけではないがどうにも関係が上手くいかなかったとき。
 振られてしまった時というのも該当するかもしれない。

 例えば昔ながらのお見合いでは、「お見合いおばさん」のような人が近所の妙齢の男女をマッチングして、あそこの家のあの息子とあの娘いいわぴったりじゃないの、と言った感じでお見合いを進め、実際会ってみてダメだった時の断りの常套手段が「占いで相性が合わない」だったらしい。実際、本当に占いに凝っている親族がダメ出ししたケースもあると思うが、要するに「本人または親族の誰かが気に入らない」ということの婉曲的な表現として使うわけだ。互いに比較的近い地域に住んでいるのだから、今後遺恨を残すのは好ましくない。そのための方便だっただろう。

 毒を持って毒を制す。
 属性をもって属性を制す。

 あの人とは占いの(性格診断の)相性が悪いから、ということは、心を健やかに保つのに意外に効き目がある。マッチングがうまくいかないのは、「この服はウェイブ体型だから着こなせない」のと同じように、自分が悪かったわけでもないし、誰のせいでもない。属性が合わなかっただけである。

 『不適切にもほどがある!』の中で秋津あきつくんという二十代の男性は、恋をしたことがなかった。恋愛はコスパとタイパが悪い、と言う理由だった。マッチングアプリで知り合った属性の相性ばっちりの女性と速攻で同棲して、彼は本気の恋をしたが、結局は振られてしまう。彼の場合は逆に「属性があわなかっただけ」という言い訳がきかないぶん、結構ダメージが大きいようだった。

 ちなみに先ほど例に出した『ルナティックドーン』は、昔のゲームなのでいわゆるオフラインのパソゲー(PCで操作するゲーム)である。大量のNPノンプレイヤーキャラがいて楽しかった。
 そのすぐ後にオンラインゲームが出てきた。オンラインとなるとゲームの中で半分リアルな人に会うことになるが、パソゲー時代は自分以外はゲームの中の人だった。そこに「3年も暮らした」「子までなした」というような人間臭い情はなく、私が暗殺や強盗をしなくなれば一瞬にして心(属性?)が離れて行った。トラブルもない代わりにまさに無情、非情である。

 リアルな人間は、そうはいかない。そもそも好きな人と結婚するために暗殺はできない。『ふてほど』の秋津くんは初めて女性に恋をしたのに、しかも属性の相性は完璧だったのに、完璧だったが故なのか、多少のズレを許容できない彼女に振られてしまった。

 人は属性だけでは生きていない。
 生身の存在感は、属性を圧倒するのである。

#なんのはなしですか


リアル「なんのはなしですか」を聞きそびれたことを大いに後悔しつつ、現在の「なんのはなしですか」ブームに乗るべく、さりげなく参加してみました。いやぁ、乗るしかないですよね。企画じゃないんですって。企画じゃないのにこのムーブメントです。普通勝手に旋風巻き起こらないです。さすがコニシさんです。