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ブーケ・ドゥ・ミュゲ、あるいは鉄のアンリ #うたすと2

 霧のような雨だった。
 車のライトに照らされた雨は、群青ぐんじょう色をした天鵞絨ビロード緞帳どんちょうの前で繊細なレースのカーテンが翻っているように見えた。
 別れ話は車の中でしてはいけないと、インスタグラムでしたり顔の女が言っていたが、望むと望まざるとに関わらず、別れ話になってしまうということはある。
 車の中は冷えていた。冷房も暖房も入れる季節ではない。だが外は雨だ。外気温は下がり始めていた。車が鉄の塊であることを、思い知らされる。
 青ざめた横顔が、最初に僕を好きと言ったのは有海あみのほうだとなじった。その通りだった。相手が自分を好きになったとたんに嫌いになる現象を「蛙化現象」と言うらしい。有海の場合はまさにそれで、助手席に座るかなたを、今はもう好きではない。
 むしろ嫌い。
 そういうの蛙化現象って言うんだよ、ひどいよ、最低だよ、と、奏は言った。
 童話では、蛙が王子様になって両想い、めでたしめでたしというのが定番だ。好きだった人を嫌いになるのは、王子様だったのに蛙になるという童話の逆バージョン。
 そんなこと、考えたことがなかった。有海は哲学みたいなことはこの世で最もどうでもいいことだと思っている。本当に、この人とは合わない。

 発端は、強いて言えば、有海の誕生日のプレゼントがすずらんのブーケだったことかもしれない。すずらんだけの小さなブーケは地味だった。有海の好きな花はアマリリスやダリア、向日葵、芍薬。すっくと立つ独立した花が好きなのだ。何もわかってない、と思った。あまつさえ、結婚したいなどと。冗談でしょと思った。仕事が楽しくなってきたところだというのに。
 結局こちらの事情を全く察しない人なんだと思って、急速に冷めた。
 とにかく、今は好きじゃないの一点張りを貫き通す。もう会わないから、と言い捨てた。
 もう何を言っても仕方がない、と悟ったのか、諦めたように奏は助手席のドアを開け、霧雨の中に出て行った。
 有海は、ふう、とため息をついて、車を発進させる。彼がその後、濡れようがどうなろうが、どうでもよかった。

 ひと月ほど経ったある日、仕事で造詣クリエーターの山瀬と知り合った。山瀬は少し皮肉めいた物言いをする、髭がセクシーで物静かな男だった。今度二人で飲みませんかと誘うと、仕事が忙しいからとやんわり拒絶されたが、それがまた、有海には好もしかった。
 プロジェクトが終わって、顔を合わせるのもこれで最後と言う日、みんなで飲みに行きましょうということになった。山瀬も現れた。一次会が終わるころにはテーブルの下で手を握り合っていて、一次会が終わり次第別々の方向に帰るとみせかけて、同じ場所に二人は消えた。
 ねえきみにはいつも誰かいるんでしょうと、ベッドで山瀬は言った。
 有海が、ひとりが嫌いなのと言うと、男はニヒルに笑った。
 へえ。実はこの前、僕の大切な人がきみに振られたんだ。
 急な話に、何を言い出すのかと、有海はストッキングをはく手を止めた。
 その人はね、僕の、本当に大切な人だったんだよ。あの人に好きな人が出来たと言われて、僕は傷ついたよ。好きな人、なんてカテゴリに僕は入れもてらったことがないんだ。それなのにその相手は、女と言うだけで愛される。不条理でしょう、そんなことは。
 何を言ってるの、と有海は茫然と山瀬を見た。
「奏はきみに振られた晩に死んだよ。雨の中に放り出されて、車道を歩いていたところを酔っ払いの車にひかれて」
 有海は驚愕の面持ちを山瀬に向けた。山瀬の手には、途中まで有海の足を挿入していたストッキングが握られている。彼が強くそれを引くと、ストッキングはチーズのように伸びて、難なく彼の手に握られた。
 有海は激しく抵抗したが、男はストッキングを捩りあげ、渾身の力で彼女を括った。
「そんなの、私に、関係、な、い」
 それが、有海の最後の言葉になった。


 僕は女の首をストッキングで締め続けた。最初からこうするつもりだった。女の体なんてたいして好きではなかったが、有海は僕の上でずいぶん楽しんだ。
 こんな女を、好きだったのか、奏。 
 すずらんは喜ばれなかったんだと彼は悲しそうに言っていた。確かにすぐのぼせ上る馬鹿な男だったかもしれないが、彼は純粋だった。彼は僕の全てだった。彼を悲しませた女に、僕は僕の心臓にはめ込まれた鋼の輪で復讐する。締め付け、締め上げ、そして。
 我に返ると、女の手でカーテンが半分引きちぎられていた。
 僕はそのレースのカーテンを、彼女の顔にかける。
 明け始めた宵の、月光の名残りのような青に照らされ、それはまるで、花嫁のヴェールのように見えた。
 また夜が来たら、僕は彼女を奏が跳ね飛ばされて落ちた川の底に沈める。
 そしてはなむけにすずらんの花束を投げ入れるのだ。

 「もう一度、幸せであれ」

 僕の心臓にはめ込んだ鉄の輪は、もう決してはじけ飛ぶことはない。


※「ブーケ・ドゥ・ミュゲ」が頭から離れません。詞も曲も歌声もとても素敵です。でもすみません。サスペンスになってしまいました。

※「蛙化現象」の語源である、グリム童話の「かえるの王様、または鉄のハインリヒ」のオマージュ。「ブーケ・ドゥ・ミュゲ」がフランス語なのでハインリヒもフランス語読みの「アンリ」に改めました。

※ハインリヒは王子の忠実な家来で、「かえるの王様」の王子と王女の婚姻ののち、母国から馬車で迎えに来ます。王子に魔法がかけられて蛙になった時、悲しみに胸が張り裂けそうだったので心臓に三本の鉄の帯を巻き付けていたハインリヒ。王子の魔法がとけて花嫁と帰国する道中、喜びに鉄の帯がはじけて外れていく様子が描かれています。「鉄の帯が外れる」という表現はドイツのことわざにかけたもので「肩の荷が下りる」「ほっとする」の意味。ウィキペディアより意訳。

 よろしくおねがいします。

【追記】
 「カエルの王さま あるいは鉄のハインリヒ」のことは、2008年フェリシモ出版刊の「おはなしのたからばこ」第1集で知りました。

「おはなしのたからばこ」は
とにかく贅沢な「たからばこ」です
いま(2008当時)をときめく
作家さんと画家さんの
めくるめくコラボレーション
現在は大型本として
発売されているものもあります
文:江國香織
絵:宇野亜喜良
ものすごく贅沢な組み合わせ
上の写真の「熊ちゃん」
「白雪姫」もすごいです

 宇野亜喜良さんの絵のイメージが強くて、雰囲気の似ている絵を「みんフォト」さんで探したら、9taroさんの絵に巡り合いました。9taroさん、ありがとうございます。